▼徳川家康
(1542~1616)今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに、幼少期からの人質生活を脱する。信長の盟友として勢力を拡大するも、後に豊臣秀吉に臣従。秀吉の死後は関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府を開く。以後、天下に泰平の日々をもたらす。

家康は怒りっぽかった!?

家康は『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』の歌にあるように、我慢強いイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。しかし一番家康の気質に近いのは『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』です。

家康が生まれた松平家(のちの徳川家)は激昂の家系でした。家康の祖父である松平清康、父親の松平広忠はともに、激昂して暴言を吐いたことが原因で家臣団に殺されました。家康の長男・信康も家臣に対しての罵詈雑言が原因で信長に切腹を命じられています。

そんな血筋の家康が『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』と歌われるほど我慢強い天下人になっていったルーツは、弱小大名だった松平家の人質として織田家、今川家をたらい回しにされてきた12年間に及ぶ幼少期の人質生活にあります。

味方のはずの家臣からも「何の能力もないただの子供」と見下され、のけものにされていた状況下で、何もできない自分が生き残るためにはどうしたらいいのかと考え抜き、たどり着いた結論が『我慢』でした。

我慢を覚えた家康は、怒りをコントロールして様々な人を許したのです。三河の一向一揆では家臣の半分が離反しましたが、すべてを不問としたのです。その結果、人質時代を知る信長からも信頼厚い同盟国の当主とみられるまで成長しました。

しかし、ときには抑えがたい徳川の血が爆発するときもありました。

三方ケ原の合戦で、武田信玄が侵攻してきたとき、家康の浜松城を無視して、上方の織田軍と決戦するという噂が流れました。周りは織田軍と挟み撃ちできると安堵したのですが、家康は自らが無視されたことに激昂。周囲の反対を押し切り突撃を行ったのです。

家康は、桶狭間の戦いを真似ようとしたのでした。しかし、家康は信長ではなく、相手も勝利することを確信し、慢心していた今川義元ではありません。

当時無敵と呼ばれた武田信玄に対して頭に血が上った状態で組み立てた作戦で挑み、家康は大敗を喫します。

このとき家康はわざわざ絵師を呼び、自分の惨めな姿を描かせました。その『しかみ像』を家康は激昂しそうになるたびに眺め、怒れる自分を抑えようとしていたのではないでしょうか。

そして関ケ原の戦いでは「大垣城を無視して佐和山城を攻める」と噂を流し、石田三成を野戦へ引きずり込み、勝利を収めました。これは、かつて家康が信玄にされたことと全く同じです。

自分の欠点や敗北を認めるためには、自分と向き合う時間が必要です。家康が天下人となれたのは、自らの恥部と向き合ったからにほかなりません。

【家康のここに学べ!】自らの欠点を認め、欠点と対峙する孤独な時間を持て!