▼明智光秀
(1528?~1582)織田家家臣として、金ヶ崎の戦いや比叡山焼き討ちで活躍する。その功績を認められ重臣として取り立てられる。のちに本能寺の変を起こし信長を討つが、中国大返しにより戻った羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで討たれる。

孤独で紐解かれる本能寺の真相

本能寺の変で知られる明智光秀は、孤独と向き合うことができなかったために、破滅したと言っても過言ではありません。裏切りや殺し合いが日常だった戦国時代において、光秀は幸か不幸か本当の意味で、孤独になることができませんでした。

光秀は戦国時代の武将にしては珍しく側室をつくらず、正妻の煕子と細川ガラシャを含めた子どもたちに囲まれた家庭を持っていました。

ですがある日、若い頃より苦楽をともにした煕子を失い、その前後に、光秀自身も大病を患います。心身ともにボロボロとなった光秀は、これまでプラス思考で乗り越えられてきたこともマイナス思考となり、苦境を乗り越えることができなくなったのです。

そんな状態の光秀にとっては、信じられない出来事が起きました。大坂・本願寺の戦いを担当していた織田家の重鎮・佐久間信盛が、信長により高野山に追放され、さらに追い打ちをかけるように、光秀は九州戦線の指揮官となることが決まったのです。

九州の戦争が終われば、朝鮮や明へ行かされるかもしれない。さらに、佐久間信盛のように追放されるかもしれない、と光秀は不安になりました。

心の拠り所であり、つらい気持ちを共有できた煕子夫人が生きていた頃であれば、光秀もこの一連の出来事も違う見方ができたのではないでしょうか。

気持ちを共有する相手を失った光秀は、物事を悪いほうへと考え込むようになりました。それが本能寺の変へと続いていくのです。

本能寺の後も光秀の不幸は続きます。光秀の天下をかけた山崎の戦いで、配下の大名だった筒井順慶と、娘・ガラシャの夫である細川忠興に援軍要請を行いますが、彼らは光秀に味方しませんでした。光秀はそれを認めることができず何度も使者を送りました。孤独を知らなかった光秀は、孤立無援でも戦うと、覚悟を決めることができず、秀吉の前に敗れてしまいます。

晩年の光秀は、何度も孤独と向き合う機会はありましたが、家族に依存しすぎていたため、強さを持つことができませんでした。本当の意味で孤独を知り、自分と向き合うことができていれば、マイナス思考になり始めたとき、危うい思考になっている自分を客観視してブレーキをかけられたはずです。

現代人にも家族を心の拠り所にする人は多いですが、家族に依存しすぎると、光秀のようになってしまう可能性があります。家族と過ごす公の時間も大切かもしれませんが、自分自身のために時間をつくり、己を顧みる心のゆとりを持つことも大切なことなのではないでしょうか。

【光秀のここに学べ!】家族と同様に、自分とも会話せよ!