1978年からスタートした富士フイルムのテレビCM「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」が一世を風靡したときには、「期待されないっていうのが一番いいものができる」ということをいっていたそうです。また、90年代に洋服の青山が銀座へ進出する際、銀座の商店街が「ブランドイメージが崩れる」と猛反対したことがありました。

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ところが、その後ユニクロやH&Mなどが続々と出店しましたよね。その青山のCMに希林さんも出ていて、「世の中の雰囲気が自然と変わっていくのって、すごく楽しい」と感慨深げに振り返っていたことを覚えています。そうやって女優としての自分の立ち位置を確立していったのでしょう。

希林さんは21歳のときに森繁久彌さん主演のドラマ『七人の孫』にレギュラー出演して以来、森繁さんを師と仰いでいました。戦争を潜り抜けてきた森繁さんたち世代の持つ人間としての懐の深さや幅に畏敬の念を持っていたんでしょう。その一方で、権威主義的な側面のある森繁さんの世代に対しては反発も覚えていたようです。

よく森繁さんは楽屋に届く花を見て「おお、今回はあいつから来てねぇなぁ」といっていたそうです。楽屋でどれだけ花が届けられるかは、役者としての自分の権威付けを測る物差しになるわけです。花の量が権威の象徴みたいな感じですかね。だから、実際は花自体が嫌いなわけではないのですが、

「私は花が嫌いなのよ」

ということを希林さんはよく口にしていました。

死を覚悟してわかったこと

2004年に乳がんが見つかったときですが、希林さんは映画の出演を依頼されていました。撮影はタイのチェンマイで、終了後はプーケットに移動してお孫さんと一緒にオフを楽しむ予定だったんです。しかし、手術をすることになって、映画の出演をキャンセルします。そうしたらスマトラ島沖大地震が起きて、滞在するはずだったホテルが津波の被害に遭った。「もし孫に何かあれば取り返しがつかなかった。がんになってよかった」ということを口にする一方で、

「人間はスレスレのところで生きているんだなっていうふうに感じるわけです」

と話しています。

そして、何かそこで吹っ切れて、「もう何があっても御の字だ」と覚悟が決まったようです。それを象徴するのが

「健康な人も1度自分が、向こう側へ行くということを想像してみるといいと思うんですね。そうすると、つまらない欲だとか、金銭欲だとか、いろんな欲がありますよね。そういうものから離れていくんです」

という言葉だと思います。

みなさんにとったら意外かもしれませんが、希林さんは若い頃から不動産投資が大好きだったんです。単純に好きというのもあったのでしょうけど、それだけでなく、それは役者の世界で生きていく手段でもありました。役者っていうのは、ずっと人気者でいられる保証はどこにもありません。家賃収入があれば、もし役者で食えなくなっても生きていける。映画や芸能界の大物に媚びへつらうこともしなくていいし、そういう覚悟の表れでもあったと思います。