考え方や行動が一変した
かつての希林さんは、とにかくお金にはシビアで、マネジャーをつけずに自分でギャラの交渉をやりながら、「ギャラ交渉は楽しいのよ」とニヤニヤしていたし、何よりお金が大好きでした。でも、がんになってから「もういらない」というようになり、考え方や行動が一変したことに正直いって私も大変驚きました。
たとえば、私は山口県の田布施という町に住んでいるんですけど、そこに講演に来てくれたことがあったのです。大女優だし講演料をどうしようかなと考えていたら「私はお金いらないから」といって「その代わり講演を聞きに来た人からお金取っちゃダメよ」と釘を刺します。「じゃあせめて交通費だけでも」と申し出ると、「いや、交通費もいらない」と受け取りません。
一方、希林さんは仕事に関するインタビューなんかで「来た仕事を順番にこなしているだけ」とか「一切なりゆき」と答えていたみたいですが、これは彼女特有の“嘘”ですね。希林さんはオファーのあった仕事は慎重に選びました。というか、一回は必ず断りました。希林さんが主演した映画『あん』の河瀬直美監督も「最初は断られました」といっています。
希林さんは、その後で内容を検討したり、監督の能力や技量、熱意を推し量ったりして「よし、この監督ならいける」となって選んでいたのです。がんが見つかってからその傾向がより強まったようで、出演作品は松竹や東映など大手ではなく、インディペンデント系の監督が多かった。
『万引き家族』の是枝裕和監督は、「希林さんに監督として認めてほしいという思いで映画を作っていました」という感想を述べています。撮影の途中で希林さんは納得がいかないシーンがあったため、新たにワンシーン作らせたりもしましたが、それはそれできっと楽しかったのでしょう。その結果として、いい作品ができて第71回カンヌ国際映画祭・最高賞パルムドールを受賞する。希林さんは
「人が喜ぶのが一番うれしい」
とよく口にしていました。そうすることで、結果的に希林さん自身も輝いていたのだと思います。
そうそう「病気になったっていうことが、すごく自分の人生で得している」ともいっていましたね。がんという病を抱え「死」を受け入れながら生きているからこそ、できる仕事があるというんですね。だからイギリスの画家のジョン・エヴァレット・ミレイの名画「オフィーリア」をモチーフにして「死ぬときぐらい好きにさせてよ」というキャッチコピーを載せた宝島社の企業広告のような仕事が舞い込み、希林さんご自身も随分面白がりながら引き受けられたのでしょう。
また、鍋島藩の藩士が武士の心構えを書いた書物『葉隠』にある「武士道とは死ぬことと見つけたり」を引用しながら、「あれも、やっぱり自分が死んだ状態を想定して、そういう所から自分を俯瞰して見る訓練です。ずっと現実にいると見えなくなるけど、私は病気をしてから向こう河岸に行くのが怖くなくなった」ともいっていました。人間は最後は1人で死んでいくわけですが、そうした死を覚悟した人ならではの言葉だと思います。