前座修行とは「落語家養成ギプス」である

こんな厳しいシステムだとはつゆ知らず、前座期間を9年半もかかってやっと二つ目になるという鈍才ぶりを発揮した私でした。しかし、それでも今、落語家として、談志の弟子としてきちんと食べていけているのはこのシステムのおかげではないかなと信じています。ダメな人間でもなんとかしてしまう「落語家養成ギプス」こそ前座修行だったのです。

「俺を快適にしろ」ということは、師匠にびろということではありません。「立川談志という超絶な天才を快適にすることで、芸人としての可能性を見いだす」ということであります。つまり、主体が「談志」にあるのではなく、むしろ「弟子」のほうにあるのです。弟子からの搾取などという短絡的な意味合いでは決してありません。その証拠がこの試練を乗り越えて今や落語界を牽引する志の輔師匠、談春兄さん、志らく兄さんらです。一目瞭然ですよね。

前座というのは一人前に扱ってはもらえない身分です。ヒエラルキーの最底辺の立ち位置です。「悔しかったら二つ目、真打ちになれ。俺はそのための基準を明確に設けている」と、談志は一流のロジックで追い討ちをかけたものでした。

新卒でも「先生」と呼ばれる歪んだ環境

翻って、学校の先生というのは教員免許を取得し、配属先が決まるとすぐに「先生」と呼ばれてしまう、ある意味いきなりちやほやされる立場になります。そしてそれがずっと定年まで続いてしまいます。新卒をいきなり「先生」呼ばわりしてしまうのって、前座をいきなり「師匠」と呼ぶような感覚でしょうか。

これは、逆に「先生」と呼ばれるだけのコンテンツや実績の備わっていない若い先生方にはつらい環境でもあるはずです。また、そんな状況がずっと続いてゆくと「先生=偉い人=何やっても許される人」というおりのようなものが、ちりのように積み重なってゆく。とんでもない人物になる可能性すらあります。

仮説ですが、今回の東須磨小学校のいじめに加担した教員らはそのよどみの具現者だったのではないかと想定します。神戸市は校長の権限が強く、教員の人事を意のままにしやすいとも聞きました。あんなひどい動画を残すまでに至った理由はもちろん一つではないでしょうが、「先生と生涯呼ばれ続ける環境」の負の部分は、閉鎖的になればなるほど発生しやすくなるのではと推察します。

「加害に加わった教職員の実名報道を」などという論調も散見しますが、それはあくまでも対症療法にすぎません。一番はそういう極端な先生方が出にくくなる組織の体質改善ではないでしょうか。