家庭でも学校でも会社でも「民主主義」がなくなった

安倍政権下では、政権与党は野党との合意形成のためにはほとんど労力を割きませんでした。多数決で強行採決して法律を通すことが当たり前になり、多くの国民はそれに心理的抵抗を感じない。民主主義を知らない人たちが国会に民主主義がないことを怪しんだり、不満に思うことはありません。

でも、成員全員の合意をとりつける努力を怠る組織は、うまく回っているときはいいけれど、いったん失敗したときに復元力がない。政策決定において自分たちの意見が無視されたと感じたメンバーはトップの失敗を「ざまあみろ」と嘲笑するだけで、その失敗に自分たちも責任があるとは思わない。

企業ではそれでいいかもしれません。でも、政権が外交や内政において失敗するということは巨大な国益の喪失を意味しています。場合によっては国土を失い、国富を失う。そのような事態に接して、国民の相当数が冷笑して、「ざまあみろ」と拍手喝采するというのは異常事態です。

今の若い人たちは、民主主義というものを単なる多数決という手続きのことだと思っている。できるだけ多くの人、多様な立場を合意形成の当事者に組み込むことで集団の復元力を担保する仕組みだということを知らない。僕はそれを民主主義の危機だとみなします。

自分の親よりも年上の「古老」たちの話を聞く場所

内田樹さん(『プレジデントFamily2019秋号』より)撮影=森本 真哉

今、全国で生まれている「私塾」は「民主主義の教育」のための機関になるかもしれないと僕は思っています。僕の主宰する凱風館は武道の道場であると同時に「寺子屋ゼミ」という私塾でもあります。そういう場所で、若い人たちが自分の親よりもさらに年上の「古老」たちの話を聞くというのも大事な教育活動です。

重要なのはそこで受け渡しされる知識や情報のコンテンツではなくて、そこで営まれる対話のプロセスです。どういうふうに学びの場を立ち上げるのか、どんなふうに自分の意見を述べ、どういうふうに異論を受け入れ、思考を深めてゆくのか。そのダイナミックなプロセスを経験してもらいたい。

これまでの学校教育は、教壇から知識や情報や技術が一方通行で伝えられ、子供たちはそれを暗記し、試験で査定された。でも、僕のゼミでは「正解」を暗記させたり、それを査定してゼミ生を格付けしたりはしません。どんな意見でも、そこからみ出しうる最良の学術情報は何かというところにフォーカスします。僕がゼミ生たちに学んでほしいのは、断片的な素材からどうやって最も豊かな学術的アイデアを引き出すか、そのノウハウだからです。