『となりのトトロ』の「まっくろくろすけ」に出会える空間

前に図書館の司書さんたちの集まりに呼ばれたときに「図書館というのは人があまりいないほうがいい」という話をしました。僕の記憶にある「よい図書館」というのは、天井が高くて、閲覧室が広くて、しんと静かで、一切の生活臭がない空間でした。それでいいと思います。というのは、図書館というのは、そこに踏み入った人が「私は一生かかってもここの蔵書の1%も読むことができない」という自己の有限性と無知を思い知るための場だからです。自己の圧倒的な卑小さを思い知るための場という点でいえば、図書館は礼拝堂や神殿と同じ機能を担っている。

そういう「聖なる場所」には「何も起こらない時間」が必要です。閉館時間になったら施錠して、半日くらい誰も立ち入らないようにしておく。そうすると、翌朝、扉を開けたときに「場が調っている」のです。お寺の本堂や教会の礼拝堂や武道の道場もそうです。半日ほど扉を閉ざして、「何もない空間」に「何も起きない時間」が流れると、場が調う。

「まっくろくろすけ」が登場する宮崎駿監督の映画『となりのトトロ』(販売元:ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)

宮崎駿監督の『となりのトトロ』の中に「まっくろくろすけ」というかわいい妖怪が出てきますね。僕も早朝に道場の扉を開けると、それまで道場の中にいた妖精のようなものがすっと壁の隙間に消えたあとのように感じます。

ノイズのない、調った空間で書物を読んでいると、自然と触れているときのように、吸い込まれていく感じになってきます。いつの間にか別の時代の、この世ならざるものたちの世界に入り込んでいる。寝食も自分が何者なのかも忘れ、完全に書物の中に没入する。そういう経験がすごく大事なんです。

読書というのは一見受動的な行いに見えて、実は非常に能動的な行為です。読む主体が強い権限を持っていて、リテラシーに応じて読み出しうる愉悦、快楽がどんどん高まっていく。そこがゲームとの違いです。

英語教育やプログラミングなど平時のスキルを学ばせても……

今の親たちは目の前の社会のあり方を見て、子供に英語教育をしたりプログラミングを学ばせたりしていますが、それらはすべて社会のシステムがこのまま続くことを前提にした「平時のスキル」です。

でも、今、親たちが「実学」と呼んで子供に習得させている知識や技術のうち、20年後も「それで食える」ものがどれだけあると思いますか? これから雇用環境がどう変わるか、身体実感のある親の言葉は子供に染みるんです! これからはどういう職業に対して社会的ニーズがあるのかまで考えている人は「実学」志向の親たちの中にはほとんどいません。

親たちはとりあえず「みんながやっていること」を自分の子供にもやらせようとします。でも、「みんなができること」しかできない子供は将来の職業選択に際して、競争倍率の高いところに自動的に追い込まれる。それよりは「誰もできないこと」に資源を投じるほうが、少なくとも競争的環境を回避することはできます(まったく食えない可能性はありますけど)。みんなが英語をやるなら、自分はアラビア語をやるとか、ヒンディー語をやるとか、発想の転換が必要なんです。