なぜ政治がテーマの映画が作られなくなったのか
司法取引という、日本の司法制度にないものを取り入れてまで、一国の総理経験者を逮捕するという理不尽なやり方に、メディア、特に雑誌論壇は賛否を戦わせ議論が沸騰した。映画や小説では、この事実の面白さに太刀打ちできなかった。それだけの才能もいなかったのだと思う。
第2次田中内閣まで続いた高度成長で、国民の多くが豊かになったため、政治よりも経済界が力を持ち、日本を主導していく時代が続いた。
それもバブルが弾けて終焉する。以降、政治が再び表舞台に登場してくる。新自由主義を旗印に、規制緩和と称して多くの非正規労働者を生み出した。急速な少子高齢化が進み、年金制度や社会福祉政策が破綻寸前まで追い込まれている。
こうした時代にこそ、再び、政治の貧困や政治家たちの悪行をテーマにした映画が作られそうなものだが、なぜできないのか。それは、われわれ国民が真剣に阻止しようとしてこなかったさまざまな言論規制法が、縦横に張り巡らされてしまったからである。
この国には民主主義によく似た形があるだけ
個人情報保護法、盗聴法、特定秘密保護法、共謀罪など、挙げればきりがない。それに全国に設置された監視カメラ、Nシステムなど、中国を批判できないほどの「警察国家」「監視国家」に、立法、司法、行政が一体となって、日本を変えてしまったからである。
本来ならメディアが、そうした権力の横暴をチェックする役目があるはずだが、産経新聞や読売新聞をはじめ、大手新聞のほとんどが権力側に取り込まれ、向こう側の番犬に成り下がってしまった。
かつては、「サンデープロジェクト」「ニュースステーション」「ザ・スクープ」など、硬派の報道番組をもっていたテレビ朝日は、1993年の椿貞良報道局長発言(「反自民の連立政権をつくる手助けとなる報道をしよう」という趣旨の発言をしたといわれる)以来、権力側にすり寄り、次々に報道番組を潰していった。自らジャーナリズムであることを放棄したといわざるを得ない。
中国で天安門事件が起きた時、よくいわれていたこんな話がある。反政府運動をしている学生たちは、「この国に民主主義を」と叫んでいたが、彼らのほとんどが民主主義がどんなものか知らなかったという。
これを聞いて、われわれ日本人は笑えるだろうか。映画で内調のトップがいうように、この国には民主主義によく似た形があるだけなのだ。