2つの宗教は江戸時代までは「ひとつ」だった

一見、2つの宗教施設が別々に島にあるように見える。現在、宗教法人法上、2施設は別の宗教団体である。だが、もとはひとつの施設だった。江戸時代まで宝厳寺と都久夫須麻神社は一体で、「竹生島権現弁才天社」という名称で知られていた。「権現」というのは、仏菩薩が衆生を救うために、神の姿でこの世に現れたものとする神仏習合の考え方である。

もとは寺院本堂であった都久夫須麻神社本殿(国宝)。(撮影=鵜飼秀徳)

竹生島権現弁才天社では、宝厳寺の僧侶が別当(住職)となり、弁才天を本尊(権現)として祭っていた。竹生島は典型的な神仏習合の島であった。

ところが、折しも明治維新の節目を迎えると、新政府は神仏習合を完全否定する。仏教が伝来する前の、神道中心国家をめざすべく、寺と神社を明確に分ける神仏分離令を発したのだ。すると、竹生島には暗雲が垂れ込める。

1869(明治2)年、大津県庁より田中久兵衛という役人が島に遣わされてきた。そして、これまで一緒に祭ってきた弁財天を神社の外に出せ、と詰め寄ったのである。権現という名称も廃止し、今後は都久夫須麻神社として一本化するように命じた。

神仏習合形態の施設が寺院と神社とに切り分けられた

当時の史料(『神佛分離史料』)には、田中久兵衛が、法厳寺の塔頭(付属の寺院)であった妙覚院の住職覚以に、無理難題を押し付け、改称を迫る様子が記されている。

宝厳寺に祀られている弁才天の冠は「鳥居」である(この写真は本尊ではない)。(撮影=鵜飼秀徳)

「『延喜式(平安時代の律令の施行細則)』には都久夫須麻神社の記載がある。しかし、そうした縁起由来を示す公的な届出は、これまで一切出されたことがない。したがって、島(弁才天社)の縁起の証拠を示すように。もし、抗弁するようなら朝敵同様とみなす。場合によっては、(前年の1868年に近江坂本で起きた廃仏毀釈運動である)日吉大社の仏像仏具が焼き捨てられたのと同様の事態になるかもしれない。県庁からのお達しを素直に受けなければどうなることか。そのところをよく考えよ」

つまり、あくまでも神社が主体であり、寺院は神社の付属施設。だから、寺院を切り捨てても問題なかろうという理屈である。

この命令に、寺院側や信者らは激しい抵抗を見せ、かろうじて廃寺だけは免れた。しかし、宝厳寺と都久夫須麻神社の習合状態は、解消せざるをえなかった。結果、宝厳寺本堂は都久夫須麻神社に明け渡し、神社の本殿へと姿を変えた。ご神体は宝厳寺宝物の中から2つが選ばれ、祭られた。もともとの本尊である弁財天像は、妙覚院の仮堂に移された。

廃仏毀釈から73年後に建設された宝厳寺本堂(撮影=鵜飼秀徳)

その上で、宝厳寺塔頭の常行院住職覚潮が還俗、生島常之進という改名し、神主になったという。新しい宝厳寺の本堂が建築されたのは、それから70年以上も後の1942(昭和17)年のことである。

こうして強引に寺院と神社とが引き離された。竹生島のように、住職が神主に職替えし、神仏習合形態であった施設が寺院と神社とに切り分けられた事例は、枚挙にいとまがない。