ささいなミスの延長線上に巨悪がある

中には、そういうこともありうると自覚している人もいるかもしれません。ときには無意識にミスをすることもあると。人間ですから、ヒューマンエラーは避けられません。しかし、ここでの誤解は、それがたいしたことじゃないと思ってしまっている部分にあります。つまり、車の操作ミスはたいした悪じゃないと思い込んでいるのです。

人が亡くなるような大事故を見ると、それが大きなまちがいであることはよくわかると思います。なんて悪いことをしてしまったんだと。でも、人は自分がそうした大事故を起こさない限り、ことの重大さに気づかないのです。なぜなら、運転時の操作ミスそのものは、日ごろのちょっとしたまちがいにすぎないからです。ボケっとしていて、ワイパーとウインカーをまちがえたとか、ライトをつけっぱなしで走っていたとか。

そのレベルなら、何も免許を返納するまではないと思うことでしょう。しかし、大事故はその延長線上に起こっているのです。これは、悪に対する誤解によるものです。私たちはつい、悪とは大変な過ちによって生じるものだと思いがちです。殺意をもって猛スピードで歩行者の列に突っ込んでいくとか。でも、ブレーキとアクセルの踏みまちがいは、ワイパーとウインカーの間違いとなんら変わりません。

どちらもちょっとしたミスなのです。ところが、そのちょっとしたミスが、大きな悪につながりかねないのです。ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントは、まさにそんな「悪の陳腐さ」と「無思考性」について論じています。

一刻も早く倫理観を高めよ

彼女は、多くのユダヤ人を強制収容所に送り込んだナチスの幹部が、ただ何も考えずにハンコを押す仕事をしていただけの役人であることを発見します。つまり巨悪は、日ごろのちょっとした悪の積み重ねの中で起こる陳腐なものだということに気づいたのです。ということは、誰もが知らず知らずのうちに巨悪を犯してしまう可能性があるということです。よく考えずに行動している限りは。

したがって、加害者にならないようにするためには、自分の身体を疑うと同時に、自分の小さなミスが巨悪を引き起こすという自覚を持つことです。そうすれば、少しでも判断能力の鈍ったような人は、免許を返納するということになるはずです。

これはいくら社会の側が基準を厳しくしても、なかなかうまくいきません。本人が大丈夫だといえば、おそらく免許を取り上げるところまではいかないでしょう。そのレベルまで基準を上げるとすれば、年齢にかかわらず、少しミスの多い人は免許を持てなくなってしまいますから。

だからあくまで本人の倫理観を高めるよりほかないのです。社会がすべきなのは、高齢者の運転に対する倫理観を高める風潮をつくることです。そのためには、決して高齢者ドライバーを闇雲に非難しないことです。それだとただの感情的な世代間対立を生むだけです。そうではなくて、もっと論理的に事柄の本質を明らかにしていくことが求められるのです。