ただし教科書といっても出版社によりいろいろな種類があります。歴史では山川出版社の教科書が受験生の定番とされていますが、定説とは異なる独自の視点から歴史を捉えている教科書もあるのです。社会人の場合は読んでおもしろければいいわけですから、読み物としてそういった変わり種の教科書を選ぶのも一興でしょう。
人は気づかないうちに若い時代に自分を取り巻いていた文化や時代の雰囲気に、無意識を縛られているものです。その文化にはサブカルチャーも含まれます。私の世代なら、手塚治虫の影響をみな受けています。
私たちの無意識を縛っていた手塚治虫自身も、宝塚歌劇など関西における「阪急文化」の影響を受けており、阪急の創始者である小林一三に縛られた人だったともいえます。
家庭の文化資本の差を埋めるもの
このように私たちの無意識を縛っている文化は、教科書の中にもあります。私は自分が中学高校の頃に教科書で読んだ詩歌からも、ずっと影響を受け続けていると感じています。前述の萩原朔太郎の詩「新前橋駅」など、今でも覚えています。私が昭和30年代から40年代の中学校国語教科書に掲載された詩を集めた『あの頃、あの詩を』という本を作ったのも、そうした思いがあったからです。
当時の教科書には、33年に創刊された雑誌「四季」を舞台に活躍した、三好達治、室生犀星、中原中也といった詩人の作品が多く載せられていたものでした。
いまの国語教科書では詩歌は脇役です。さらに文部科学省の新学習指導要領によると、文学より実用的な記述を重視する方向になるといわれています。
ただ団塊世代より上では、私自身がそうだったように、家に詩集や文学の本など全くなくて、「学校の教科書で初めて文学というものを知った」という人は少なくないでしょう。
所得はほぼ同じ中産階級でも、公務員などサラリーマンの家庭と私の実家のような商売をしている家とでは、教養という面では大きな差がありました。片方の家には流行りの詩集や作家の全集があり、片方にはそもそもろくに本がないというように、フランスの社会学者ピエール・ブルデューいうところの「文化資本」の蓄積がまるで違うのです。
大学の文学部に進学した私が強く感じたのも、がんばって勉強してなんとか入学した私のような学生と、エリート校出身で高校時代から教養を磨いていた学生たちとの差です。
公教育の良さは、自力では教育にアクセスできず、教養を身につけることができない人々を救うことにあります。これは文学の世界でも同様で、たとえば20世紀前半に活躍したフランスの女性作家コレットは、もし公教育がなかったら文学にアクセスすることはなかっただろう家庭の出身でした。
今後、学校では文学は教えないということになると、教科書をきっかけに詩や文学に目覚める人もいなくなり、大人の教養という面では、家庭ごとの文化資本の差が、いままで以上に効いてきそうな気がします。