イカの干物をのすための機械を自ら開発
イカ天を作るためには、干したイカを食べやすいように「のす」(焼いて延ばす)工程が必要になります。この作業は大変手間のかかるものでした。しかし機械工作が得意だった先代は、イカの干物をのすための機械を自ら開発し、工程を自動化することに成功するのです。まるか食品では現在、複数回圧延機に通して、元のスルメからおよそ5倍の長さにまで延ばしています。
そんな工場の社長の子として生まれ育った川原さんは、学校から帰ると工場に行ってかくれんぼをしたり、従業員用の大浴場に一緒に入ったりと、生まれながらに「社長の後継ぎ」として育ちました。「物心ついたときから会社を継ぐものと思っていたので、プロ野球選手になりたいとか、そういう夢を持った記憶がないんですよね」と川原さんは言います。
しかし、そんな川原さんも成長するにつれ親の言いなりに「後継ぎ」になることに抵抗を覚え始めます。でもお父さんには反抗できない。そこで親から離れようと、地元尾道を出て、東京の大学に進学するのです。
しかし、想定は外れます。先代は営業で頻繁に東京に来るため、そのたびに呼び出されて会うことはしょっちゅうだったそうです。
このままではますます父親の言いなりで、イカ天メーカー後継ぎの運命から逃げられないと思った川原さんは、さらに遠くに行こうとアメリカ留学を思いつき、大学4年生の夏、大学を休学して2年間テネシー州の大学に留学します。そのときも「卒業してそのまま米国で就職すれば、父から逃げられる」と考えたそうです。大学ではマーケティングや会計を専攻しました。「最初は言葉がまったく通じない環境で、本当にきつかった」と言いながらも、授業についていくためにマーケティングの成功事例を多く学び、市場の見方、決算書の見方まで学んだと言います。実はこの経験が後の業績回復のときに役立つのですが、当時は「ついていくのに必死」だったと振り返ります。
2年の留学を経て帰国した川原さんは日本で就職活動をします。ある食品会社から内定をもらった川原さんは、内定承諾書を持って実家に帰ります。しかし、そのときに父親からすかさず「この会社を頼んだぞ」と言われてしまい、結局は稼業を継ぐことになるのです。
川原さんは96年に入社後、東京の営業所に勤務し始めます。しかし、その頃から会社の経営は難しい局面を迎えます。売り上げの大半を占めていた主力商品の「郷(さと)の味」の売り上げは下降線をたどっていたのです。会社は新商品の開発などにも投資ができず、負のスパイラルに陥り始めます。
川原さんは2000年に尾道に戻って専務に就きますが、その後もしばらく業績は低迷。社長に就任した06年には、入社時に19億円あった売り上げが16億円を切るまでになっていました。
しかし後述するように、ここからまるか食品の復活劇が始まります。そしてその背景には、川原さんが米国で学んだマーケティングの知識が大きく貢献します。