元号はいつからあるのか。始まりは、紀元前の中国にさかのぼる。中国に朝貢している国々は、基本的に中国の元号を使わざるを得なかった。だが日本は表向きでは中国に仕える素振りをしつつ、奈良時代からは独自の元号を使うようになっていった――。

※本稿は、プレジデント書籍編集部著、宮瀧交二監修『元号と日本人』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

「元号」と「年号」は同じ意味

「元号と年号は何が違うのか?」という質問に、あなたは答えられるだろうか。

1989年1月7日、新元号を「平成」と発表する小渕恵三官房長官(写真=時事通信フォト)

実は、基本的に「元号」と「年号」は同じ意味である。「年号」は、年数の上に良い漢字を複数冠して年を表す称号であり、本来「元号」も「年号」と言っていたのだが、改めた年号のはじめの年を、「昭和元年」「平成元年」のように、元という字を用いて表現するため、「年号」を「元号」とも言うようになったのである。

現在では、「明治」の改元で「一世一元の制」が導入され、昭和54年(1979年)の「元号法」の施行を経て「天皇一代につき、元号ひとつ」という方法が定まっている。

今の日本では「年号」と言うと、西暦のことを指すという方も少なくないだろう。実際に、「誕生日を年号から書いてください」と言われたとき、「1958年」と西暦で書く人もいれば、「昭和33年」と書く人もいるはずだ。私が教えている学生たちに書いてもらうと、「平成31年」よりも「2019年」と西暦で書く学生のほうが圧倒的に多かった。

そうなると不便なので、西暦も含めて指すときは一般的に「年号」でいいと思うが、漢字を冠する表記に限定するときには「元号」と使い分けたほうがわかりやすくなる。つまり、「年号」という範疇の中に「元号」があると理解して差し支えないだろう。

江戸時代の人は時間をどう考えていたか

今を生きる日本人は、「元号」を使うことに何の違和感も持たないが、たとえば江戸時代、地方に住む農民たちは朝廷が決めた「元号」など、知らないままの人がほとんどだったとみられている。当然ながら、西暦など知る由もないだろう。

では、どうやって当時の人たちは時間軸を考えていたのか。おそらく、干支(かんし)を活用することが多かったと考えられる。

干支は、十干(じっかん)(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(じゅうにし)(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせて、ひと回りすると60(還暦)を数えるものだ。「甲子(きのえね)」や「丙午(ひのえうま)」に、「戊辰(ぼしん)」「壬申(じんしん)」などは、一度は聞いたことがあるだろう。

江戸時代の平均寿命は30~40歳代だったとみられているため、干支のひと回りで60年とすると、数えやすかったのだろう。「丙午の年の生まれです」などという会話がされていたのかもしれない。