時代や地域によって時間の表し方は変わる

あるいは、江戸に住む町民などは、「今の将軍様になってから何年」などと言っていたかもしれないし、「あの冷夏で不作だった年から何年」とか「あの地震から何年」など、さまざまな言い方で時間を表していたことが考えられる。このように、西暦や元号が一般的になる以前は、時間の表し方は時代や地域によってまちまちだったようである。

こうした言い方は、「阪神タイガースの日本一から34年」とか「第二次世界大戦終戦から74年」など、現在でもよく耳にする。何を軸と捉えて時間を表すかは千差万別で、「元号」もまた、こうした捉え方のひとつにすぎないとも言えるだろう。

改元で「時間を操っていた」中国の皇帝

元号の歴史を紐解くと、その始まりは中国・漢の時代にさかのぼる。紀元前141年から紀元前87年まで皇帝の地位にあった武帝(ぶてい)が、即位の翌年(紀元前140年)を「建元(けんげん)元年」としたのが元号の最初であると、『漢書』(前漢について書かれた歴史書)に書かれている。

その武帝は皇帝になってから亡くなるまでの54年間に、11回も改元しているという。改元の理由は、さまざまな天変地異や、政局を転換したいときなどであったと考えられている。このように、改元することで時間を自由に操るのが皇帝の特権であったと言えるだろう。

特に唐の時代の中国は、中華思想が国の根幹となっていた。唐の皇帝が世界の中心であり、周辺のアジア諸国は中国に従っている国だという考え方である。

事実、朝貢外交と言い、中国に貢(みつぎ)を贈ることで自国の存在を認めてもらえるとして、邪馬台国の卑弥呼も魏(ぎ)に使いを出していたことは、あまりにも有名である。

卑弥呼の時代、倭国に元号はなかったので、卑弥呼は魏の元号を使っていたと考えられている。『魏志倭人伝』には「景初(けいしょ)3年」(239年)に、卑弥呼が魏に使いを送ったと記されている。卑弥呼が魏に出した文書にも、魏の元号である「景初」が使われていたのではないだろうか。