「どんなにがんばっても、この給料でやっていくしかない」

「自分は家族を支えられないという現実を突きつけられ、人生で初めて、目の前が真っ暗になるってこういうことなんだ、と思いました。不合格がわかった日は、家族の前に顔を出すことができず、夜中に近くの川べりに座って酒を飲んでいましたね。どんなにがんばっても、ずっとこの給料でやっていくしかないんだと、絶望的な気持ちになりました」

どん底に突き落とされたAさんは、ボクシングと出会う。他県にいた頃に一時経験があるが、近所にボクシングジムがあることを知り、ボクシングを再び始める。何とか自分を保つために、Aさんが選んだ方法だった。

「やり場のない怒りとか、いろいろなものが襲ってきて、自分がぶっ壊れてしまいそうでした。ボクシングにぶつけることで、何とか平静を保つことができました」

Aさんはボクシングをすることで、仕事に再び打ち込むことができた。そして考え方も前向きになった。講師の待遇を改善するために行動しようと、教職員組合に臨採部を立ち上げて、交渉の先頭に立つことを決心した。

教員不足などを受けて、全国的に受験資格年齢の上限を引き上げる、もしくは撤廃する県が出てきたのはこの頃。するとN県も突然、上限の引き上げを発表した。45歳未満に引き上げられたのだ。

給料に「ここまで差があったのか」と愕然とした

Aさんが45歳未満への引き上げを知ったのは5月。チャンスは、その年の7月と、翌年の試験の2回しか残されていなかった。

時間はなかったが、7月の試験では1次試験に合格。2次試験の結果は「B」で、「成績優秀だけど不合格」というものだった。Aさんは頭にきて通知書を捨ててしまった。ところが、「B」の不合格者は、この通知書を持っていれば翌年の試験で1次試験が免除されることになっていた。幸いにも、妻が捨てられていた通知書に気づき、保管していたため救われた。

Aさんは翌年、2次試験に全てをかけた。ピアノ教室にも通い、満点を取るという気迫で臨んだ。結果は合格。組合で臨採部などを立ち上げたことで、周囲からは合格は難しいのではないかと言われたが、そんなことはなかった。最後まであきらめなかったことで実を結んだ。

しかし、採用されてからAさんはまたも愕然とした。いままでと仕事内容は同じなのに、手当や福利厚生なども含め、給料にここまで差があったのかと、初めて知ったのだ。