これはもう捨てては置けないと、今の状況に心を痛め、療養中の体に鞭打って声を上げる。日本に笑顔を取り戻すために。

心に迷いが生じたとき、私は『一遍上人語録』を読み返します。踊念仏で全国を遊行し、陽気に「南無阿弥陀仏」を広めた一遍は「捨ててこそ」の思想を実践した人物です。

捨てると言っても、今話題の断捨離とは異なります。たとえば好きな人がいるのに振り向いてくれない場合、そのことばかり考えていたらいつまでも気分がすぐれません。一つの思いにすがっていると人は情けなくなるので、その思いを捨てる必要があるということです。

災害に遭った人もつらい気持ちをなんとか捨てて、新しく出直すしかないと思います。忘れてもいいんです。戦争だってあの悲惨さを覚えていたらとても生きてはいけません。人間は辛い気持ちを忘れるから生きていけるのです。

親が死んだり、子供が死んだり、とても悲しいときは、身も世もなく嘆くけれど、1週間泣き通しているかというとそうでもありません。1カ月経って気がついたら、「ああ、今日は少し忘れていた」と悲しみは薄らいでいきます。1年経って、1年前と同じ気持ちのままということはない。忘れるなと言ったって忘れるんです。それは薄情なのではなくて、忘却は神か仏が与えてくれた恩恵なのです。

過去のことを嘆いても、前に進めません。数十年前、五番目のお見合いの相手を配偶者にしたけれど、もし二番目だったら……と考えても後の祭り。だからといって未来にばかり思いを馳せればいいわけでもない。「明日も地震来るかな?」と心配しようが、来るときは来るのであって、防ぎようがありませんから。

お釈迦様は「過去のことをくよくよするな、未来のことを思い煩うな」とおっしゃいました。過去を追わず、未来に願わない。私たちは、今を生きるしかないんです。今の一瞬一瞬に心をこめて、真剣に生きていく。今日自分は何をすればいいか、どう生きればいいかを考えて実践する。誰かに「大丈夫ですか」とメールを打つでもいい。わずかでいいから義援金を出すでもいい。それが私たちにできることではないでしょうか。

そのうえで、少なくとも気持ちは暗くなりっ放しではいけません。不幸はいつもお通夜帰りのような暗い顔をしてる人が好きで寄ってきます。こういうときに必要なのは、笑顔。笑ってるところには明るい運命が訪れます。

家族や仲間といるときはなるべく笑うようにしましょう。今笑うことは決して不謹慎じゃありません。お花見だってお酒を飲んで騒ぐのは遠慮すべきですが、花を見て心が慰められるのであれば、私はやればいいと思います。夜空を見上げて暗闇に光る星に希望を見出してもいいし、自分が勇気づけられたり、幸福な気持ちになることを求めてやるべきです。自分が幸福でないかぎり、周囲を幸福にすることはできません。

花といえば、私は体を壊してから家にばかりいるので、庭の梅に蕾がついてることや、それが1日ごとにふくらんでいることに敏感に気づくようになりました。そのことをみんなに報告したら、「忙しくて梅の花をしみじみ眺めたこともなかったんですね!」と笑われました。震災で経験した通り、自然は恐ろしい脅威を与えます。しかし同時に、無限の慰めも与えてくれるのです。

花が咲いていること。花に色がついていること。どうしていちいちそれらにびっくりして、心洗われる気分になるのでしょうか。それは移り変わりがあるからです。私は90年近く生きてきて、つくづくすべては無常だと悟りました。無常とは悪い意味ではなく、常がない、つまり同じ状態は続かないということです。花は咲いて散って枯れるし、人は生まれて老いて死ぬ。そして雨が2カ月降り続けることはないのです。

今の日本は、おそらく未曾有のどん底に落ちているのです。でも世は無常なのだから、ずっとこのままということはありません。どん底の下はない。だからこれからは上がっていくだけ。どんなに辛くても桜は咲き、春はやってくるのです。そう考えましょう。そう信じないと、私たちは今日という日を笑えないじゃないですか。

(構成=鈴木 工 撮影=若杉憲司)