これはもう捨てては置けないと、今の状況に心を痛め、療養中の体に鞭打って声を上げる。日本に笑顔を取り戻すために。

地震が起きた直後、マスコミの方々から「慰めの文章か言葉をください」「コメントをください」と連絡をいただきました。だけど私は、そうした依頼を「ごめんなさい」と頭を下げてすべて断ってきました。

普段の私だったら、災害の起きた翌日に現地に駆けつけているんです。新潟中越地震のときも、雲仙普賢岳噴火のときも現地に向かったし、阪神・淡路大震災では道が通れない状態だったので、京都から歩いて行きました。被災した方々はお坊さんの姿を見るだけで、ほっとした気分になるようです。もちろん、義援金を持って行きました。それで私も何らかの役に立ったかなと考えていました。

だけど昨年、背骨の圧迫骨折で入院したため、現在もまだ自由に動けない状態です。温かい家で暮らして、お風呂に入って、それなりのものを食べて、とても「みなさん頑張ってください」とは言えません。それで依頼を断っていたのです。

それが震災から数週間が過ぎた今、地震や津波だけでなく原発や風評被害などの問題が次々と起こって、これはもう捨てて置けない状態になっています。微力でも私の発言が何らかの役に立てばと思い、声を上げることにしました。

東北には縁があります。23年前、私は岩手県の最北にある天台寺の住職になりました。寺の一帯は火山が通り、地震が珍しくない地域です。引き受けてすぐマグニチュード5.5の地震が起きたときは、本やら何やら寺の中にあるものがすべて落ちてきて、逃げて帰ろうかと思ったものですが、しょっちゅう地震があるものだから次第に慣れてしまいました。それでも今回の地震は、いよいよ腐りかけてボロボロの本堂が倒れたかと思いました。だけど中の仏さんは倒れることなく、なにも被害がなかった。昔の建築で揺れに強い構造が幸いしたようです。

檀家や寺の下にある町にもほとんど被害はありませんでした。しかし三陸の町が……。あの一帯は私がしょっちゅう法話に出向いて、ほとんどが行った覚えのある町です。どこも静かないいところだったのに。テレビで山のような津波が押し寄せる様を見て愕然としました。津波が去った後、光景がすっかり変わってしまったことには茫然としました。

何より心配になったのは、そこに住んでいる人たちです。みなさん東北人は寡黙なのですが、仲良くなれば情が深くて優しい人ばかりです。そして人を裏切りません。先日、頻繁に会っている役人さんから震災のことで手紙が届きました。

三陸の町にある彼の生家に津波が押し寄せたため、お父さんがお母さんを助けようと家に入ったところ、そこから両方の行方がわからなくなってしまった。しばらくしてからお父さんの遺体が発見されて、お母さんはまだ発見されていない。そして家はなくなって、思い出の品物も全部流されてしまった――。

そういう内容でした。そんな辛い状況で仕事に出ていることを考えると胸が痛みましたが、仕事をしてるときだけ忘れられるのだそうです。

(構成=鈴木 工 撮影=若杉憲司)