当初の予定では「12月30日に特背容疑で逮捕」のはず
「金融商品取引法違反の疑いで2度逮捕され、勾留されていたゴーン容疑者については東京地裁が勾留延長を認めず、特捜部の準抗告も棄却し、近く保釈される見通しだった」
「捜査には当初から、特別背任での立件を最終目的とする見立てがあった。裁判所が勾留延長を認めず、保釈の可能性が生じ、これを阻止するために同容疑での再逮捕を前倒ししたように映る」
産経社説のこの見方には沙鴎一歩も同感だ。捜査の内偵段階ですでに特捜部の頭の中には特別背任での立件があったはず。本来なら延長しようとした拘留(東京地裁が却下)が切れる12月30日辺りに特背容疑でゴーン氏を逮捕し、年明けに同容疑での本格捜査に入るスケジュールだったと思う。年が明ければ、関係者の休みも終わり、任意での事情聴取もやりやすくなる。しかし、そのスケジュールを10日ほど前倒しせざるを得なくなったわけだ。
検察の頭には「虚偽記載」しかなかったのか
スケジュール通りに進められなかったのは、特捜部の求めた勾留延長が認められなかったからだ。これは前代未聞である。異例中の異例だ。
これを受けて、メディアでは主に次のような見解が報じられている。
「あと10日拘留期間を延ばしながら有価証券報告書の虚偽記載容疑をさらに固めようとしていたが、その目論見が外された」
「有価証券報告書の虚偽記載は投資家や株主を欺くものだ。それを重い犯罪と捉えるのは、ガバナンス(企業統治)が重視されるいまの時代の流れに沿っている」
「それゆえ検察は当初から虚偽記載しか考えていなかった」
「特捜部は地裁の拘留延長の却下という判断にかなり焦ってあわてた」
「特背は苦肉の策だ」
「東京地裁の判断に腹を立て、立件が難しい特背を選択してしまった」
なるほどこうした見方に理解はできる。
検察の捜査はだれのために存在するのか
ここで検察に言いたい。
検察の捜査はだれのために存在するのか。検察のためにあるのではない。私たち国民のためにあるはずだ。
虚偽記載事件は、世論の賛同を得られただろうか。かつてのリクルート事件のときのように世論が「濡れ手に粟は許せない」と盛り上がっただろうか。
海外メディアは拘留の長さを「人質司法」と批判したが、彼らにしても同じ容疑で再逮捕して拘留を長引かせ、容疑者に自白を強要する特捜の捜査にあきれたのだろう。
裁判所が勾留延長を認めなかったのも世論や海外からの声を意識したからではないか。
本丸といわれる特別背任容疑での立件。日産という会社を自らの財布代わりに使ってきたゴーン氏の私的流用の実態にメスが入る。その捜査に世論が賛同するかどうかは、検察の捜査にかかっている。特捜部が謙虚な姿勢で捜査を行わなければ、世論は付いてこないだろう。