日本で教育を受け、宮家の女王と結婚

日韓両国の歴史を考える上で、李垠殿下の存在は欠かせません。にもかかわらず、日本の学校でも殿下についてはほとんど教えられることがないため、知っている人は少ないと思います。

李垠殿下は、朝鮮王・高宗の子です。伊藤博文の建議で1907年に日本に渡り、幼少期から日本で教育を受け、学習院や陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校をに進学。卒業後は日本陸軍に少尉として任官します。異母兄の純宗が1926年に死去すると、日韓併合に伴う朝鮮王室の処遇を定めた王公族制度に基づいて李王となり、李王家の当主になりました。

軍人として有能だった殿下は順調に昇進し、宇都宮歩兵第59連隊長、北支那方面軍指令部、近衛歩兵第2旅団長などを歴任。最終的には陸軍中将にまで上り詰めます。1936年の二・二六事件の際には、李垠殿下は宇都宮歩兵連隊長として大隊を率い、反乱軍の鎮圧にあたっています。

李垠殿下は1920年、戦前の11宮家の一つであった梨本宮の守正王の第1王女、方子女王と結婚します。方子女王は昭和天皇の妃候補の一人でもありました。朝鮮独立運動家の徐相漢という人物が、この結婚に反対して李垠殿下夫妻暗殺を計画しましたが、準備中に発覚して逮捕されています。

ご夫妻は千代田区紀尾井町の旧北白川邸跡に建てられたチューダー様式の洋館、李王家邸で暮らしました。李垠殿下は寡黙な性格で真面目であり、夫婦は仲睦まじく、「皇族らしく振舞われている」と高い評価を得ていました。

李承晩政権が帰国を拒絶

第二次大戦終結後の1947年、日本国憲法の施行とともに王公族制度が廃止され、李垠殿下は李王の位を喪失し、一介の在日韓国人となります。夫妻は帰国を大韓民国に申請しますが、当時の李承晩(イ・スンマン)大統領が王政復活を警戒し、帰国を受け入れませんでした。