とはいえ、そのとき帰国できなかったことは不運ともいい切れません。中国の清王朝の宣統帝溥儀が撫順戦犯管理所に収容されたように、李垠殿下も強制収用所のたぐいの施設に入れられたかもしれないからです。日本陸軍で活躍していた経歴から戦犯として裁かれ、見せしめに処刑された可能性さえあります。
朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代の1962年、李垠殿下は方子妃ともに韓国籍になることを認められます。1963年、夫妻は韓国へ帰還しますが、李垠殿下は脳梗塞を患っており、ソウルで入院生活を続けました。
1970年、李垠殿下は死去します。方子王妃は韓国に残り、昌徳宮の楽善斎で暮らしながら心身障害児の教育事業に尽力。1989年に世を去りました。
殿下は韓国併合の「人質」だったのか?
日本が朝鮮を侵略し、幼い李垠殿下を人質として日本に連れて来たという説明をよく見かけますが、それは事実ではありません。
日本は当時の大韓帝国首相の李完用(イ・ワニョン)らの求めに応じ、1910年、大韓帝国を合法的に併合しました。これに伴い、李王家は皇族としての身分を失い、代わりに、大日本帝国の皇族に準じる王公族の身分を与えられ、保護されました。李垠殿下が日本で教育を受けはじめたのは1907年で、併合の3年前のことです。
伊藤博文自らが李垠殿下の教育係となり、明治天皇や皇太后も、幼かった李垠殿下に愛情を注ぎ、皇太子(後の大正天皇)と同等に教育をしました。李垠殿下が人質ではなかった証拠に、殿下は何度もソウルに里帰りしています。
学校さえまともになかった当時の朝鮮を哀れみ、日本は李垠殿下をはじめとする朝鮮王族の子弟に教育の場を提供しました。王族だけではありません。朝鮮人で優秀な者は身分を問わず、陸軍士官学校で学ばせ、日本の軍人として活躍の場が与えられたのです。朴正煕大統領などはその代表です。
ちなみに、朝鮮併合後に日本が最も力を注いだのも、朝鮮における公教育の制度化と、各地での学校や病院の建設でした。