自分の見たいものしか見ない現代社会
ソクラテス、プラトンを嚆矢として、西洋の哲学者たちは、長らく理性的に考え、生きることの重要性を説いてきた。だが、それは裏を返せば、多くの人間が理性的に生きていないことを示すものだろう。理性的な人間がマジョリティならば、わざわざ理性の大切さを訴える必要はないのだから。
私たちが生きる現代社会はどうだろうか。多くの識者が指摘しているように、ネット社会が人々を視野狭窄にしている側面があるのはたしかだろう。政治学者の片山杜秀氏は、平成史を振り返る連載のなかで次のように語っている。
<世の中が高度に複雑化・専門化したために、高等教育を受けても追いつかない。分かりにくい政治的・経済的・社会的事象も増える一方。要するにいくら学んでも追いつかず、人間がオーヴァーヒートしてしまう。そんな時代が当世なのです。
そうなると人間は自ら進んで原始宗教の時代に戻るのです。広く分かろうとしても分からないので、多くのものに目をつむり、「見たいものしか見ない」「聞きたいものしか聞かない」ようになるのです>(「AI栄えて人間滅ぶ」『小説幻冬』2018年6月号)
IT革命が夢見たユートピア
以前、この連載でも紹介したように、ヒトの心には、直感的な「速いこころ」と理性的な「遅いこころ」という2種類の情報処理システムが重なって搭載されている。「分かりにくい政治的・経済的・社会的事象」を理解するためには、直感は向いていない。安全保障はどうあるべきか、社会保障はどうあるべきかといった問題を、直感で判断するわけにはいかないだろう。
それゆえ、社会が複雑になればなるほど、その問題解決には理性的な能力が求められる。でも理性は「遅いこころ」なので、立ち上がるのも遅ければ、処理能力もゆっくりだ。それでもヒトが高度な文明を築くことができたのは、前回述べたように、環境を知性の一部としてきたからにほかならない。
今年、邦訳が出版された『知ってるつもり――無知の科学』(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著/土方奈美訳、早川書房)でも語られているように、「頭蓋骨によって脳の境界は定められるかもしれないが、知識の境界はない。知性は脳にとどまらず、身体、環境、そして他の人々をも含む」のである。
ならば、現代社会で生じる複雑な問題、解決が不可能に思えるような問題も、環境を知性の一部にすることで対処が可能なのではないか。いや、人間は、社会は、もっと賢くなれるのではないか――そう考えた人々がいる。IT革命の旗手たちだ。
情報技術の発展は、人類の知性をも発展させる。戦争、紛争、貧困、環境問題など、グローバルな問題も、情報技術を駆使すればいずれ解決されるだろう。IT革命の可能性を信じた人々は、そんなユートピアを思い描いていた。