当時のソ連は、印刷物や複製物に厳しい規制がかかっていたから、政府系や共産党系の限られたお客の実情を知る機会も、少ない。いまから思えば初歩的な開拓手法だが、自分でロシア語に翻訳したカタログで展示会を開き、集めた名刺をもとに、日本から資料を送るなどした。

そんな仕事を約6年やり、欧州担当を経てオランダの子会社の社長になる。米国へ転じ、帰国して調達部とマーケティング部の課長、部長を歴任後、2度目の米国勤務になる。この間、コンピューターで処理した画像情報をレーザーで印刷板に直接焼き付ける出力機で、日米の競争相手と協業を実現させる。

2014年4月に社長就任。秋には持ち株会社制へ移行し、その社長にも就く。社長になっても、やりたいことを、やりたい。でも、世界の技術革新の潮流に遅れては、それも無理。だから、すぐに2つのチームをつくり、内外の技術動向と経営環境の変化に関する情報の収集、分析をさせる。

かつて、雪の降るモスクワの街を、お客の話を聞くために重い鞄を持って回った。オランダの子会社の社長になっても、お客から情報を得ることに力を入れた。そういう積み重ねで、競争相手とも率直に話ができるようになり、40代初めに初のOEMを実現させた。いつも「教えを乞う」の姿勢できたからこそ「自適其適」も可能だった。

SCREENホールディングス 社長 垣内永次(かきうち・えいじ)
1954年、和歌山県生まれ。78年天理大学外国語学部(現・国際学部)卒業後、岩倉組(現・イワクラ)入社。81年大日本スクリーン製造(現・SCREENホールディングス)入社。2005年執行役員、メディアテクノロジーカンパニー社長、11年取締役、14年4月より現職。
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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