跡を継ぐのは、長男ではなく「一番弟子」
当社の創業は平安時代まで遡る。この1200年間を、必ずしも、直系が会社を継いできたわけではない。いつの時代も「一番弟子」が継いできた。鋳造技術というのは、武器や貨幣を造る非常に重要な技術だった。技術が落ちれば、国力が落ちる。だから、時の権力者の承認がないと継げなかったからだ。創業家の長男でも技量がなかったら跡を継げず、一番弟子が道具とともに代々襲名してきた。実力がある者が技術を継承していったのが、会社が長く存続できた大きな要因だろう。
室町時代以降は、京都の寺社仏閣に青銅製の装飾金物を造っていた。京都の大本山から末寺が、全国規模で広がっていったこともあり、成長産業となった。腕のいい一番弟子が跡を継ぎ、当代一の技術を保っていれば、仕事はコンスタントにあったようだ。
時は流れ、第二次世界大戦が始まると、寺社仏閣からの仕事ができなくなった。造ったものを溶かし、武器や弾薬にする時代だった。そこで金属鋳造の技術を転用して、機械金属加工の分野へシフトしていった。
仕事が減り、OEM仕事が増えていった……
私の父親は男3人兄弟だが、当時はちょうど大学を出た3人が、力を合わせて機械金属の仕事を立ち上げたらしい。具体的には、自動車や重電機・機械の鋳造部品製造だ。これらは群馬県・鹿児島県に工場進出し、現在グループ企業として独立している。京都本社はルーツに戻ろうと考え、1960年代後半から近代建築の金属装飾のほうにも進出していった。
代表作は、皇居の御造営時(明治21年)の鉄鋳物「正門二重橋前高欄」を1996年にブロンズ鋳造で完全復元したものだ。ドイツのミュンヘンにある、BMW本社ビルの外壁もつくった。4気筒のエンジンをモチーフにした建物で、約40年前当時、世界で初めて真空アルミ鋳造の技術を実用化したものだった。バブル景気の頃は、先ほど話した近代建築の装飾金物の注文がとても多かった。全国各地に開発されたリゾート施設で私たちの装飾金物が重宝された。
ところが、バブル景気が崩壊した途端、装飾金物の仕事はほとんどなくなった。売上減少を補うために、以前から手がけていた建材メーカーのOEM仕事に注力していった。