89年9月、シカゴに本社を置く大日本スクリーンアメリカの米国西部地区担当の副社長として、カリフォルニアの販売拠点へ赴く。営業地域はハワイを含めた15州で、5、6人の営業担当と10人ほどの営業技術者のほか、サンフランシスコなど数カ所に自宅を事務所にする営業マンもいた。半年後、近くにあったエンジニアリング子会社の社長も兼務する。こちらは日本から装置の半製品を輸入し、組み立てて売っていたが、装置は時代の波に乗り遅れ、もう閉めるとの結論が、ほぼ出ていた。
翌年夏、出張で帰国した際にエンジニアリング会社をつくった副社長に「どうしますか」と尋ねると、「もうちょっと存続させたい。好きなようにやっていい」と返ってきた。「好きなようにやっていい」は歓迎で、「他人と同じことをやるのは嫌だ。日本ではやれないことをやろう」と思い、マックに対応した応用ソフトの開発会社に衣替えすることに決める。
開発チームのリーダーは、ヘッドハンティング会社に探してもらい、ボストンへ飛んで面接した。5つ年下の男性で、技術的な水準はわからなかったが、「新天地でチームを率いて新しいことをやりたい」との考え方が、自分と似ていた。
2年程度の開発期間を見込んだが、マックと自社製品をつなぐソフトが、2年足らずで完成する。「好きなようにやっていい」と言った副社長を京都から招き、パッケージ箱のデザインを3種類みせて、「どれがいいでしょうか」と選んでもらう。自分で言うのも妙だが、ちょっと感動的な場面だった。
学んだロシア語で、「ソ連市場」を開拓
ソフトは米国のお客よりも、卓上出版の普及が遅れていた日本で喜ばれ、すごく売れた。やりたいことをやる、という垣内流に合った推移だが、やはり特異な経験だ。これを見届けて、販売会社の仕事に専念する。
「自適其適」(自ら其の適を適とす)――人は本心に適ったことを、自らに適したものとして追求すべきだとの意味で、中国の古典『荘子』にある言葉だ。他人の評価に引きずられることなく、自適を目指せと説き、OEMでもソフトの開発でもやりたいことを貫いた垣内流は、この教えと重なる。
1954年4月、和歌山県金屋町(現・有田川町)に生まれる。父は郵便局で働きながら、母とミカン畑も手がける兼業農家で、兄と妹の5人家族。中学時代は昼は野球部、夜は天文学部で、指導教師がいて伝統的に流星を観測していた。県立耐久高校から、他人があまりやっていない分野で力をつけたいと思い、天理大学外国語学部(現・国際学部)のロシア語学科へ。「自適其適」が始まっていた。
就職でも、ロシア語を活かそうと、シベリアの木材を輸入していた北海道の会社に入る。東京・木場の出張所に勤め、ソ連(現・ロシア)で丸太の検品と買い付けをした。ところが、木材不況が続き、会社が撤退を決めたので転職を決断。81年4月に、ソ連進出を模索していた大日本スクリーン製造(現・SCREENホールディングス)へ転じた。海外営業部に新設された共産圏担当の営業4課で、ソ連などの市場開拓を担当する。