新宿のスクランブル交差点の設置に際しては、警視総監と地元代表が「渡り初め」をしている。というのも、スクランブル交差点の設置が始まっても、交差点を斜めに横断するという身体実践がなかなか浸透しなかったのだ。同日の朝日新聞には「もっと堂々と渡ろうよ とまどいがち、新宿の斜め横断」という記事がある。先述のように、スクランブル交差点は1970年頃に始まったが、この時点では斜め横断は道交法違反とされていた。そうした過去の習慣を打破するために、渡り初めという儀式と手本が必要だったのだ。本来、直線に進むべきところを斜めに行くことが、“自由”への第一歩だった。

スクランブル交差点が象徴する“自由”の雰囲気をよく伝えているのが、1975年5月23日の「よみうり寸評」だ。文章は、恐らく論説委員だろう著者が初めて米国ワシントンでスクランブル交差点を見かけた時の衝撃から始まる。その後、日本でも見かけるようになったが、当初、斜め横断する者は「無法者」のように感じられたという。若者はまもなく斜め横断に慣れたが、中高年者はためらったり、一度縦に渡ってから横に渡ったりしていた。年配者にとって、斜め横断は「秩序破壊」にほかならなかったのだ。

斜め横断は「日本のタブー破り」だった

「寸評」の話は、さらに日本文化論へと展開する。著者によれば、日本では儀式の際に直角進行が守られているように、最短経路を斜めに行くことは嫌われる。斜めに構えて世の中をハスに眺めることは、封建色の強い日本社会ではタブーである。しかし、最短を斜めに行くほうが機能的であり、斜め横断を通じて日本人は「コペルニクス的転換」を要求されているというのだ。そして、5月23日はコペルニクスが地動説を発表した日である、と文章は結ばれる。斜め横断が天動説から地動説への転換ほどの思想的転換なのかはさておき、いかに非日本的なふるまいとして見なされていたのかがうかがえる。この頃には都内のスクランブル交差点はさらに増えていた。渋谷のスクランブル交差点が始まったのは、1974年のことである。