スクランブル交差点は、1950年代の米国で考案された。考案者の名前と人々が入り混じる様子を表現して「バーンズ・ダンス」とも呼ばれた。日本では1960年代末から1970年頃にかけて、熊本市・京都市・福岡市で先駆的に設置された。当時の人々の感想は「警官にしては思いやりのあるアイデア」「遠回りしなくていいし、だいいち気分そう快」といったものだ(読売新聞1970年12月19日)。

71年3月には、東京でも試験的に導入される。「世田谷区八幡小前」「大田区入新井一小前」「調布市上布田横断路」「墨田区京島1丁目」「練馬区北町2丁目」の5カ所である。近くに小学校があるのが共通している。児童の安全確保のためだ。この頃は交通戦争が激化したがゆえに、交通啓蒙の時期でもあった。レーダーによるスピード違反取り締まり、新型アルコール検知器といった新兵器が投入された。この年の「春の全国交通安全運動」では、安全運転のドライバーに「ビニール製空気まくら」をプレゼントするという、いまいち意図のわからない「ほめる運動」も行われている。

当時の交通常識には大きく反した

だが、歩行者はすぐにスクランブル交差点になじんだわけではない。交通は極めて近代的なシステムであるにもかかわらず、それをめぐる意識や常識には時代と地域によって違いがある。暗黙の前提が大きく異なるのだ。フランスでは歩行者が赤信号を無視するのは日常茶飯事だが、日本ではそこまでではない。逆に日本では自転車が歩道を走るのを日常的に見かけるが、フランスではまずありえない。違反した場合、かなりの額の罰金が課される。またフィンランドでは、自動車が制限速度を少しでもオーバーしていれば、即座に取り締まられる。だが日本では、たとえば制限速度100キロの道を105キロで走行していても捕まることはほとんどないのではないだろうか。そして、スクランブル交差点も、当時の交通常識には大きく反するものだった。

1970~80年代の交通意識の高まりの中、国内でスクランブル交差点は増加してゆく。重要なのは、スクランブル交差点が常に歩行者の“自由”と結びつけて語られたことだ。1971年4月26日の読売新聞では、カメラニュースとして、新宿駅東口の4カ所で始まったスクランブル交差点を空撮した写真が掲載されている。写真が紙面の4分の1ほどを占め、「広がる“自由への道”」というタイトルがつけられている。