──ご自身は、若手のころどのような機会に成長されたのでしょうか。

振り出しは、東京・世田谷のボタン屋のバラックの2階にあった下北沢支社。そこで研修を受けた後は、本店で建設業者の営業担当になりました。そのころ叩きこまれたのは、「現場に出ろ」ということ。私が執務室で必死に約款を読んでいたら、上司から「そんなことはあとでいい。まず現場でお客様の懐に入れ」と追い出されました(笑)。

当時は日本の建設会社が積極的に海外に出ていました。キーパーソンが出張すると聞きつけると、行き先もわからないまま一緒の飛行機に飛び乗ったものです。「君はちょっと変わっているな」と、お客様にもずいぶんとかわいがってもらえました。

その後は名古屋で自動車業界を担当したり、アメリカに赴任して営業の統括をしたり。当時はいまのように専門的なキャリアプログラムがありませんでしたが、「あいつにはこういう経験をさせてやろう」と考えてくれた上司がいたおかげで、さまざまな経験を積むことができたと思います。

100億円以上費やしたのに、販売初日は十数件しか売れなかった

──ほかにも印象に残っている上司の指導はありますか?

経営企画の課長をやっていたころ社長だった樋口公啓には影響を受けました。樋口は「俺は神輿に乗っていればいい」と言う。大きな仕事は1人でできません。だから社員一人ひとりが当事者意識を持ち、彼らの発意で会社が動くようにしなければいけない、という意味です。社員に主体性を持たせるには、自分たちは何のために存在しているのかというミッションを浸透させることが大事だとも教わりました。いまは変化が激しい時代なので、神輿よりも、自ら引っ張っていく強いリーダーが必要。ただ、樋口のミッション重視の考え方はいまも心に刻まれています。

私はかつて、損保と生保をミックスした「超保険」の開発にかかわりました。2年かけて開発して、システムだけで100億円以上費やしたのに、販売初日は全国で十数件しか売れなかった。「このままでは辞表を出さなきゃいけないな」と顔面蒼白です。

でも、それでも全国の代理店のみなさんに「超保険をいくら売ってくれ」とは言わなかった。私が全国を回って伝えたのは、「世の中を変えたいから、この商品をつくった」という思いだけ。人は数字や力で動きません。ミッションを共有することが最短距離。実際にその後、超保険は200万近くの世帯に行き渡る主力商品になっています。