強みを一言でいえば「数字に明るいこと」

そこには、彼自身の2つの武器がありました。

まず1つ目。それは大義を掲げて、それ以外はすべて手段とする態度。彼には、「日本を欧米列強に伍する強い国にしたい」という志がありました。だからこそ、まず志士として「政治改革」を目指しました。

以後、一橋家に仕官したときは「幕府の改革」。やがてフランスに渡り、近代国家の国力のもとは経済であることを目の当たりにし、それを移植するために「大蔵官僚」「経済人」として活躍します。

いずれも分野は違えども、根底に共通する大義は1つ。この点だけはブレることなく、しかし後は柔軟に対処する――この態度が彼の生き残りのもととなったのです。

そして、もう1つは、自分の強みを熟知し、それぞれの立場でうまく発揮させていったこと。彼の強み、それは一言でいえば「数字に明るいこと」にほかなりませんでした。

もともと彼は豪農出身であり、若いころから商売に携わっていました。その経験を活かし、一橋家では、財政の改善を成功させ、評価を得ています。フランスに渡ったさいも金庫番として収支をまっとうし、それが評価されて大蔵省出仕の声がかかりました。さらに、大蔵省での経験が足がかりになって、第一国立銀行(みずほ銀行の前身)の責任者、そして実業界の父へと飛躍していくのです。

ブレない大義、そして自らの強みの熟知――この2つこそ、栄一の武器だったのです。

▼日本資本主義の父・渋沢栄一の歩み
1840年(0歳)
2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
1863年(23歳)
高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。
1866年(26歳)
徳川慶喜、征夷大将軍となり、栄一は幕臣となる。
1867年(27歳)
徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。
1869年(29歳)
静岡藩に「商法会所」設立。
1869年(29歳)
明治政府に仕え、民部省租税正 兼 改正掛掛長となる。
1873年(33歳)
大蔵省を辞める。第一国立銀行(現みずほ銀行)開業・総監役。
1878年(38歳)
東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。以後、東京ガス、日本郵船、帝国ホテル、サッポロビールなど約500社の設立に関わる。
1931年(91歳)
11月11日永眠

▼やることなすこと裏目でも、「大義」だけはブレなかった!

守屋 淳
作家・中国古典研究家
1965年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。大手書店勤務を経て、独立。『組織サバイバルの教科書 韓非子』『現代語訳 論語と算盤』など著書・訳書多数。
 
(写真=国立国会図書館)
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