そうこうするうち、授業終了を告げるチャイムが鳴った。これでこのクラスでは、「いじめの主な原因はいじめられる側にあり、いじめる側は本能に従っているだけなのだから仕方がない」という結論で、「予防教育」の時間を終えてしまったのである。大人の間でも見られる勝手な理屈だが、特に当事者世代である子どもは、この理屈でいじめ被害者に残酷に対応することが多い。

うわべだけを見て現実を見ない担任

学校のいじめ対策においては、最も生徒に接している各クラスの担任教員が現状の把握を行い、その状況に合わせて学校全体がいじめ予防策を企画し、実施していくというのがセオリーだ。問題は、「私の児童/生徒はこうあるべきで、クラスはこうあるべき」という思い込みのあまり、現実を見ようとしない教員がしばしば存在することだ。クラスの児童や生徒はそうした教員の心理を見越し、担任がいるときだけは担任の望むように動くが、いないときには本来の姿に戻り、悪口もいえばいじめもするし、怠惰な様子を見せて不平不満も吐く。

そうした現実をより深く知り、クラスの様子をよく観察し、それぞれの児童生徒の動向を確認するようにしていれば、このクラスに性善説が通じないことは理解できたろう。だがこの担任教員は、子供たちのうわべばかりを見て、相手の真意を察することができていなかった。人を教え導く立場にあるにしては、人間への経験が浅いと言わざるをえない。

実際このクラスでは、目立った非行こそ見受けられないものの、複数件の陰湿ないじめが横行していた。いずれも加害者は同一グループのメンバーで、いじめが問題化すると、加害者は自作自演で自らも被害を受けたと言い張り、教員らの介入を困難にしていた。

いじめの加害者たちが何の罰も受けず、反省も促されず、のうのうとクラスに居座る一方で、ひどいいじめを受けた児童や、それを止めようと仲裁に入った児童らはさらにいじめられ、不登校に至ったり、自らの存在を極力消すことでクラス内でどうにか生き永らえていた。

それでも担任教員の目には、全ての児童たちは自分の受け持つかわいい教え子であり、話せばきっとわかってくれる相手のように映っていたのである。