東日本大震災と「戦力回復」の真実

統幕長はじめ各レベルの指揮官は、自衛官の蓄積疲労の解消には徹底的に気を遣っていますが、その理由は、最終的に自衛官には「国防」という、絶対に負けることが許されない継続的な任務が待っているからです。

東日本大震災での最大時10万7000人という自衛隊の派遣規模は、全自衛隊員23万人から、空自の対領空侵犯措置(スクランブル)や海自の海上警戒、陸自の政経中枢に対する備えなど、災害対応以外の防衛警備に最小限必要な隊員数を考慮したものでした。

彼らは災害派遣を終えたあと、再び国防の任務や訓練に勤しむことになります。その際、蓄積疲労でパフォーマンスが低下してしまうようでは、一時的とはいえ、組織として本来の任務を果たすための能力が維持できなくなります。自衛隊ではどの隊員も、とくに指揮官ほど「倒れるまで頑張る」というくらい責任感が強く、じつは指揮官を休ませるということが、上級指揮官のいちばんの悩みでもありました。

自衛隊には、国防や人命救助など不眠不休でやらねばならない(させなければならない)時期、連続勤務をしなければならない(させなければならない)厳しい状況や時期があります。もちろん、それが本分ともいえます。しかし、それらを乗り越えたあと、任務とのバランスを取りながら長期戦に継続性をもって対応していくために、「戦力回復」がどうしても必要なのです。

ここでは具体的に、東日本大震災のときの「戦力回復」についてお話ししましょう。未曾有の被害をもたらした大震災という「戦争状態」において、自衛隊はどのように「戦力回復」を行ないつつ、10万人の隊員のパフォーマンスを最大限に上げたのでしょうか。

東日本大震災の災害支援では、活動の長期化が予測されていました。実際に「戦力回復」が行なわれたのは、任務の中心が人命救助・探索活動から被災地支援に移りつつあった、発災約2週間後の3月下旬。それまでは給食や入浴を制限され、余震の恐怖、二次災害の危険性、さらにはほとんどの隊員が経験したことのないご遺体と直接向き合って収容・搬送を行なうという、とてつもなく厳しい環境下で自衛隊は任務を遂行していたのです。

自衛官はスーパーマンではありません。隊員個々の心身のリフレッシュを行なうことが「戦力回復」であり、その手立てとは、睡眠と、新鮮で美味しい食事、そして休養でした。その拠点として、被災地外の遠距離ではない、比較的多数の部隊を収容できる施設がある大規模な七つの駐屯地を「戦力回復センター」に指定して開設しました。

大所帯のセンターでしたが、現場から離れて少しはリラックスできたものと思います。個人ごとに休めればベストですが、逆に、ご遺体と直面してきた経験やつらさを、同じ経験をしてきたグループで車座になって話し合うことで、精神的に解放されたという話を、当時はたくさん聞きました。

「第3段階」まで疲労が蓄積した人は、災害派遣からいったんリタイアしてもらうしかありませんが、結果的にはそうした人をほとんど出さずに済みました。メンタルヘルスを初めて組織的に実施したことがその大きな理由でしょう。