知識も経験もなかった私が心の座標軸に定めたもの

私が「辞める」と言ったのを聞きつけて、部下や、私の父親と同じぐらいの当時の管理部長も一緒に辞めると言い出しました。

せっかくここまで技術を培ってきたのだから、知り合いの方に頼んでお金を出してもらい、新しい会社をつくろうということになり、1959年に、「京都セラミック」という会社が資本金300万円で設立されました。私がちょうど27歳のときです。

今のベンチャーですと、自分でお金を集めて、自分で会社をつくるというのが普通ですけれども、当時の私にはお金がありません。あったのは、たったの1万5000円。これでは会社をつくることなどできません。300万円の資本金は、私を信じてくれた方々が出してくださったお金です。

お金を出してくれた方々は皆さんたいへんすばらしい方で、新潟出身の西枝一江さんという方などは、お寺のご出身ともあって信仰心もあり、人柄もすばらしい方でした。

「稲盛さん、だいたい事業というのは千に一つ、万に一つ成功すればいいほうなのだよ。あなたはまじめなので成功するかもしれないけれども、たぶん、失敗する可能性のほうが高いと思う」と言いながらも、ご自分の家屋敷を担保に差し出して銀行から私のために1000万円借りてくださった。

その方の奥さんも「うちには子どももいないし、あなたが27歳の青年に惚れたというのなら、いいじゃありませんか。私は家屋敷がなくなってもかまいませんよ」とおっしゃっていたそうです。

ところが、私は子どもの頃など「3時間泣き」というあだ名がついたほどの泣き虫で、そのうえ受験ではどこを受けても通らなかったぐらいですから、「あなたを信じ、あなたにかけたい」と言われて、これは大変なことになった、と震え上がりました。

創業と同時に20名の中卒を募集し、28名で会社が始まったわけですが、ああしていいか、こうしていいかと、何をするにも、みんな私のところに相談に来るわけです。

すると私は、「それはいい」とか、「それはいけない」などと言わなければならない、つまり、判断をしなければなりません。

判断をするには、判断のための基準、座標軸が私の中になければいけない。座標軸とは何かというと、それは私が持っている考え方、哲学です。

好き嫌いでものごとを判断することもできますが、一つ判断を間違うと、会社は倒産するかもしれない。そのときに私は「判断には、正しいものも間違ったものもある。そうすると、人生とは、その節々で下した判断がインテグレートされたもの、集積されたものなのだ」と気づかされたのです。

「たとえば、10の判断をするときに、そのうちの9まではいい判断をしたけれども、最後の1つを間違ったために、すべてをダメにしてしまうことだってあり得るだろう。そう考えると、ものごとを判断するということは、たいへんな責任を伴うのだな。では、その判断基準はどこへおけばいいのだろうか」と悩みました。「親戚に誰か偉い人でもいて、相談にのってもらえたらいいのに」などと思いましたが、そのような人もおらず、私は困り果てて、先ほどの西枝さんに相談に行きました。

そうしましたら、西枝さんは「稲盛さん何を言っているの、私がいるじゃないか。私に相談しなさい。なんでも教えてあげるから」と言ってくださいました。

西枝さんは、当時、宮木電機製作所という会社の専務をつとめておられて、確かに立派な方ではあったのですが、私は生意気なことに、そんな立派な会社でもないし、西枝さんの判断に任せて、本当にそれでいいのかなあと、助けてもらっておきながら思っていたわけです。

そして、「結局、自分で考えるしかない」と思うようになりました。

そうは言っても、知識も経験も何もありません。ひらきなおって、私は、子どもの頃、両親に叱られたり、先生に怒られたりするなかで学んだ「人間としてやっていいこと、やってはならないこと」、それで全部判断をしていこうというふうに考えたのです。

以来、この「人間として何が正しいのか」という考え方を心の座標軸にすえて、私はこれまで経営を行ってきました。

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