「哲学対話」のためのルール

たしかに、この試験問題だけを見ると、「フランスの哲学教育はすばらしい」と言いたくなるが、先に引用した坂本尚志氏の論文「バカロレア哲学試験は何を評価しているか?」によれば、そう単純な話でもないらしい。

この論文は、バカロレア哲学試験の受験対策参考書を分析したユニークなもので、これを読むと、手強そうな論述試験にも、それなりの受験テクニックがあることがわかる。なんと『落ちこぼれのためのバカロレア哲学』なる参考書まであるそうだ。

哲学教育に詳しい河野哲也氏(立教大学教授)も、自著のなかで次のように述べている。

<バカロレアには見習うべき美点がありますし、フランスの大学生の論述力はすばらしいものです。ですがこの試験に準備するのに、場合によっては型にはまった受験勉強的な解答の仕方を身に着けてしまうときもありますし、正確な引用をもとめられるためかなり暗記をしなければなりません。このように、フランスの哲学教育は読解と論述が中心で、かならずしも対話を重んじるものではありません。大学でも一方的な講義が多いのが現状です>(『「こども哲学」で対話力と思考力を育てる』)

前置きが長くなってしまったが、本題はここから。こうした制度的な哲学教育とは別に、現在、対話型の哲学を実践する試みが世界中で広がっている。哲学というと、どうしてもプラトン、デカルト、カント、ニーチェなど、過去の著名な哲学者の難解な著作と結び付けられてイメージされがちだが、対話型の哲学にはそういった専門的な知識や読解力は必要ない。

では、「対話型の哲学」はどういうことを行っているのだろうか。ごく簡単にいえば、みんなで車座になって、ある問いについて一緒に考え、疑問を投げかけ合いながら、理解を深めていくのだ。具体的な方法については、「こどものための哲学」というサイトにさまざまな資料が掲載されているので、関心のある人はのぞいてみてほしい。ここでぜひとも紹介したいのは、多くの哲学対話を実践している梶谷真司氏(東京大学教授)が挙げている、以下の対話のルールだ。

(1)何を言ってもいい(つまらないこと、流れからそれていることなどでもよい)。
(2)否定的な発言はしない。
(3)発言せずに、ただ聞いているだけでもいい。
(4)お互いに問いかけることが大切。
(5)誰かが言ったことや本に書いてあることではなく、自分の経験に即して話す。
(6)結論が出なくても、話がまとまらなくてもいい。
(7)分からなくなってもいい。
(梶谷真司「対話としての哲学の射程――グローバル時代の哲学プラクティス」、齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機』所収)

この小論で梶谷氏は「私たちが日常生活の中で『何を言ってもいい』場というのは、まったくと言っていいほどない」と指摘している。言われてみると、たしかにそうだ。授業がわからないからって、授業中に「わかりません」と口に出したら浮いた人間になってしまう。最近では「忖度」が流行語のようになっていたが、組織のなかにいれば、忖度なんて日常茶飯事ではないだろうか。