安倍一強の驕りに対する、都民の嫌悪感が出た
東京都議選は「都民ファーストの会」の圧勝に終わった。もとい政治実績ゼロの「都民ファーストの会」の勝利というより、過去最低の23議席しか獲得できなかった自民党の歴史的惨敗というべきだろう。もりそば(森友学園)、かけそば(加計学園)をめぐる一連の疑惑、それに対する安倍政権の傲岸不遜な国会対応は都民にとって「喉越し」の悪いものだった。お友達閣僚や自民党議員の失言や不祥事も含めて、安倍一強の驕り、緩みに対する嫌悪感が色濃く出た都議選だったように思う。
それにつけても、である。小池百合子都知事率いる「都民ファーストの会」の大勝は予想していたが、50名中49名が当選、いきなり都議会第一党とは恐れ入る。これは「共和国前進」という新党を結成して、素人同然の新人候補を大量に擁立しながらも総選挙で圧勝したフランスのマクロン現象とよく似ている。
党首が看板の個人政党が政治に風穴を開けるのは、ある意味で世界的な現象だ。アメリカのトランプ大統領にしても共和党でキャリアを重ねたわけではない。トランプ党の党首のような立ち居振る舞いで、大統領まで上りつめたのだ。
一時のムーブメントで個人政党や地域政党が既存の政治勢力を蹴散らすパターンは過去にも繰り返されてきた。私が立ち上げた「平成維新の会」はその走りみたいなものだろう。
「平成維新の会」が失敗した理由
無党派層をベースとする運動体であり、「生活者主権の国」を掲げて、「平成維新の会」の憲章にサインした(=会の政策に賛同して実現を目指すことを誓った)候補者を超党派で推薦・応援した。1993年の総選挙で「平成維新の会」は108名を推薦して、代表の私はヘリコプターをチャーターして日本全国、応援に駆け回った。結果、見事82名が当選、「平成維新の会」で立案した83の法案(『新 大前研一レポート』講談社刊を参照)を議員立法で一つひとつ実現して「日本を変えよう」と祝勝会は大いに盛り上がった。
しかしながら、その後政党の離合集散が激しくなったこともあって、党議拘束を理由に「議員立法できない」という議員が続出、かろうじて議員立法に持ち込んだ法案も廃案になってしまった。頭にきた私は、「中央突破が無理なら地方から日本を変えてやろう」と95年の都知事選に出馬したが青島幸男氏に惨敗、それで政治の世界から足を洗うことにした。
私はマッキンゼーから退職金代わりにチームを借りて都政の課題を徹底分析し、考え抜いた政策提言はそれこそ本一冊分になった(『大前研一敗戦記』文藝春秋刊)。一方、都知事選を圧勝した青島氏の主張はただ一点、「(都政の)ちゃぶ台をひっくり返す」である。たった一枚しか貼らなかった青島氏の選挙ポスターには「都政から隠し事をなくします」と書いてあるだけ。この「わかりやすさ」こそが、私の最大の敗因だった。
「都政は経営。経営なら大前研一」というスローガンも十分にわかりやすいと思っていたのだが……。わかりやすい標語一発の強さは今回の都議選でも発揮された。「都民ファースト」「東京大改革」「忖度だらけの古い都議会を新しく」など具体的な政策は見えなくても、実にわかりやすい。