筆者が調べた限りで、歴史学の用語としての「観応の擾乱」は、林屋辰三郎『南北朝』(1957年)まで遡る。しかし、その定義は「後村上天皇側から見た「正平の一統」の過程は、武家側からは「観応の擾乱」といわれる」とあり、足利氏の内紛とみなす現代の解釈とはかなり趣が異なる。またこの見解には、南朝を正統とするため、南朝の歴史を中心に据えて論じる戦前の歴史学の影響が残存している。

比較的新しい歴史用語

しかも戦後の南北朝史研究の金字塔となり、現代も同分野の必読文献となっている佐藤進一『南北朝の動乱』(1965年)は、林屋著書から8年後に刊行された著書であるが、「観応の擾乱」の語は登場しない。5ヵ月の講和期をはさみ、「第一次の分裂」「第二次の分裂」と表現されている。この段階では、「観応の擾乱」は歴史用語としての確固たる地位を占めていなかった模様である。

しかし、その翌年小川信「守護大名細川氏の興起――その三」(1966年)が公表された。この論文の第三節が「観応擾乱と細川顕氏」と題され、本文にも「観応の擾乱」という表現が登場する。

小川信は、細川・斯波・畠山の室町幕府三管領家に関する重厚な研究で知られる、佐藤進一氏と並ぶ南北朝時代政治史研究の第一人者であった。こうした研究者が「観応の擾乱」を使用したことにより、この言葉が徐々に歴史用語として普及していったとおぼしい。定義も、足利氏の内訌という現代的な解釈が一般的となった。

すなわち「観応の擾乱」は、約半世紀前に確立した比較的新しい歴史用語なのである。本章では、観応の擾乱の原因を考察し、擾乱が室町幕府にいかなる変化をもたらし、鎌倉幕府の模倣から足利氏独自の政権へどのように改造したのかを論じたい。

成り上がり者が強力な軍団を形成

まず、足利直義と高師直の対立に関する佐藤進一氏の定説的見解は以下のとおりである。

名門御家人出身である足利直義の政策は、基本的に鎌倉幕府的秩序を尊重し、維持することであった。そのため直義は寺社・公家層をはじめとして、地方の有力な御家人(特に惣領)や足利一門、幕府奉行人層に支持された。地域で言えば、東国の地頭層に支持される傾向があった。

高師直の志向は、直義の目標とは正反対である。彼は朝廷や寺社といった伝統的な権威を軽視し、武士の権益を拡大することを目指した。そのため師直は畿内の新興武士層や地頭御家人の中でも庶子に属した武士たち、足利一門でも家格の低い譜代層に支持され、強力な軍団を形成した。むろん、師直自身も成り上がり者であった。

要するに、直義は保守的で秩序の維持者、師直は急進的で秩序の破壊者、これが対立の原因になったとするのが佐藤説である。しかし近年は、この説に対する疑問も徐々に呈されている。

とにかく支持関係が入り組んでいる

第一に、両者の支持層はそこまで明確に区別できるのであろうか。

たとえば石塔頼房(いしどうよりふさ)。彼は直義の熱烈な支持者であり、直義軍の中核として活躍し、直義の死後も反尊氏を貫く。だが石塔氏は鎌倉期には朝廷の官職に任命された形跡もなく、足利一門内における家格は低かったと思われる。勢力基盤も伊勢・志摩両国で、直義死後も摂津や丹波で活動しており、むしろ近畿地方周辺の新興武士層の多くを配下に組織していたと思われる。

また観応の擾乱第二幕で最終的に尊氏の勝利を決定づけたのは、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)など東国の外様の武士たちであった。彼らはその後も尊氏に従い続け、武蔵野合戦や対足利直冬(あしかがただふゆ)戦争に多大な貢献を果たした。これも、東国が直義の地盤であったとする見解と矛盾する。

加えて幕府で訴訟などの実務を担った奉行人はほぼすべて直義派とされてきたが、粟飯原清胤(あいひらきよたね)や安威資脩(あいすけなが)といった、尊氏―師直派に所属した奉行人も知られる。また、直義の敗北後に幕府に帰参した奉行人もかなりいるらしい。

さらに足利直義自身が妾腹の子で、戦乱が起きなければ足利氏庶流になる運命だった要素も看過できない。その影響であろうか、彼は幕府の人事で実力主義を貫き、家柄を誇ることを戒めたと後に九州探題を務めた今川了俊(いまがわりょうしゅん)が著書『難太平記』で証言している。単に鎌倉以来の伝統的な武士というだけでは直義に重用されなかったことは、高師秋を見ても首肯できる。