「勝つのは我々。客に勝ち目はない」
世の中にはカジノで一攫千金を夢見る人がいる。可能性はゼロではないが、結論からいえばそれは極めて難しい。
米国ラスベガスの実話に基づく小説が原作の映画『カジノ』は、主人公がカジノ・ビジネスの旨みを語るモノローグで始まる。「合法的に現金がザクザク入る」「シャンパンに宿泊サービス、群がる女たちと酒。すべて客の金を巻き上げる“仕掛け”だ。それがベガス。勝つのは我々。客に勝ち目はない」。
古典落語に「場で朽ちるからバクチ」という語呂合わせがある。胴元が寺銭(てらせん)で儲ける博打の本質は昔も今も変わらない。カジノの仕掛けに嵌まり100億円超の特別背任で収監された大王製紙前会長は、仮釈放後に出版した著書『熔ける』の文中で、「VIPルームの入口は地獄の釜の蓋」と懺悔した。
寺銭とは胴元が取る「場の提供料」だが、カジノ・ビジネスの儲けはこれと似た「ハウス(胴元)エッジ=控除率」で生み出される。仮に「当たれば元金含みで配当5倍」というサイコロの出目予想ゲームを例に取ろう。賭けて当たる確率は6分の1。すべての目に1万円を賭ければ必ず当たるので配当金5万円が入るが、損失は1万円。配当が6倍なら±0円、7倍なら毎回1万円の儲けとなる。
ここで胴元側が配当を5倍に設定するのは、店が利益を確保しつつ客を「生かさず、殺さず」の按配で場に留まらせるためだ。配当が少ないと客は賭けないが、間違っても6倍、7倍以上には設定しない。すると客が得られる確率の期待値は6分の5なので、その残り6分の1が店側の期待値となる。この「6分の1」がハウスエッジだ。賭ける額によって胴元に入る金額が決まり、その懐を潤わせる。
客はギャンブルを純粋に運だと思い込みがち
因みに、日本にはすでに公営競技とパチンコがある。公営競技の控除率は比較的高いが、開催日に制約がある。パチンコも機械基準で射幸性を少しは抑制しており、客はカジノほど短時間勝負で大金を失うことはない。ただし、いずれもギャンブル依存症を量産中だ。
そもそも、ギャンブルは営業が継続すれば経営は安定する。つまり、客側の負けも“安定”しているということだ。カジノも保険と同じく「大数の法則」で成り立っており、ハウスエッジを、“ゼロ”にせぬ限り、ゲーム回数に比例して自動的に期待値へと近づいていくからだ。客が賭け続ければ、店側の利益は数学的に保証される。客はギャンブルを純粋に運だと思い込みがちだが、客が賭け続ければ、胴元にとってそれは確実に儲かるビジネスなのだ。
さて、そうであれば、一攫千金は無理だとしても、確率論の餌食にならぬうちに勝ったら即「退散」すれば“勝ち逃げ”できる。ただし、それには賭けの継続を自制する強い意志が必要だ。勝てば脳内に快楽物質ドーパミンが分泌されて常人は自己抑制困難に陥る。現在、ギャンブル障害は精神疾患に分類されており、ヒトはそう簡単に自分の脳を支配できない。それとも、貴方だけはできる?