1982年から、選手自身が考えた宣誓文に
戦後、高校野球の選手宣誓は定型的なものが続いた。「宣誓。われわれ選手一同は、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と闘うことを誓います」という定型文をベースにしたものだ。絶叫調が多く、「何を言っているのかわからない」という苦情もあった。大きく変わったのは1984年、福井商業の坪井久晃主将による選手宣誓からであり、宣誓文を選手自身が作ったのはこのときが初めてだと報道された。
ただし、社会言語学を専門とする陣内正敬関西学院大学教授(故人)の研究「高校野球・選手宣誓の時代性」(2012年)によると、実はこの2年前、1982年の京都地方大会において、洛星高校・青木武嗣主将の選手宣誓が先駆として存在していたという。
この宣誓文は西野文雄監督の提案によって「本当に表現したい言葉」を野球部20人全員から募集し、そこから検討を重ねて作ったものだ。青木氏は「決められた言葉を言うものだと思っていたので、えっ自分で決めていいの、と思った」と当時のことを振り返っている。宣誓を行った後は、観客がざわつき続けたという。それほど革新的な選手宣誓だった。
東日本大震災を機に選手宣誓も変わった
陣内教授は、高校野球の選手宣誓は時代別に大きく3つに大別できると分析している。「スポーツマンシップ」「闘う」「正々堂々」などの語彙が頻出していた1970年代までは、「これから闘う者として意気込みのみ」が語られてきた。選手宣誓が多様化した1980年代以降は、「自分を客観視する視点」が生まれ、「これまでの練習の思い出、またいまこの甲子園球場に立っているということの感慨」が語られるようになった。1990年代以降は「夢」「舞台」「感謝」「感動(を与える)」という語彙が頻出するようになる。陣内教授は「従来の『競技者』に加え『演技者』としての意識が垣間見える」と分析している。
ポエム化が進んでいた選手宣誓に大きな転機がやってくる。2011年3月の東日本大震災だ。震災直後に開催された第83回選抜高校野球大会の開会式で選手宣誓を務めたのは、創部1年目で史上最速の初出場を決めた岡山県・創志学園の野山慎介主将だった。
自分たちが阪神大震災の年に生まれたことを踏まえ、被災者に語りかけるように心がけたという野山主将の言葉は「弱っている気持ちに活が入った」など全国から大きな反響を呼んだ。大学入学後、福島県出身の同級生に「あの時、宣誓を聞いて泣いた」と声をかけられたこともあった。この選手宣誓を見て創志学園の野球部に入部した選手が何人もいたという。
翌年2012年の選抜高校野球大会では、被災地である宮城県石巻市の石巻工・阿部主将が選手宣誓のくじを引き当てた。石巻工の校庭も津波で水没、阿部主将の自宅も全壊している。そんな中でつかんだ甲子園の切符だった。
「答えのない悲しみ」というフレーズが被害を受けた東北・関東地方の人々の心情に寄り添っている。「だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を」という後半部分はある種、テンプレート化していた言葉が続くが、被災地からの発信ということで新たな意味を持った。震災直後の夏、石巻工の野球部には「あきらめない街・石巻!! その力に俺たちはなる!!」という横断幕が掲げられていた。