中国の民主化運動の象徴的存在だった人権活動家の劉暁波氏が亡くなって1カ月がたった。天安門事件以来何度となく拘束され、獄中でノーベル平和賞を受賞するも妻の代理出席すら許されず、獄中で末期がんになるまで放置された。それでも中国にとどまり戦い続けた劉氏とはどんな人物だったのか。彼の言葉でその人生を振り返る。
ノーベル平和賞受賞者 劉暁波氏が死去=7月15日香港(写真=AP/アフロ)
劉暁波 人権活動家
「私には敵はおらず、憎しみの気持ちもない」
――ハフィントンポスト7月14日<「愛する妻よ、君に伝えたい」劉暁波氏が残した愛と平和のメッセージに世界は震えた(全文)>

7月13日、中国の民主化を訴え、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波(リウシアオポー)氏が死去した。61歳だった。1989年の天安門事件で投獄されて以降、当局に繰り返し拘束されながらも、亡命せずに中国共産党の一党独裁を批判し、民主主義と言論の自由の尊さを訴え続けた。「中国の民主化の象徴」とされる人物だ。

劉氏は獄中で末期がんになるまで放置された。事実上の獄死と見られている。劉氏の死去の報を受けたノルウェーのノーベル委員会は「早すぎる死の重い責任は中国政府にある」と中国を厳しく非難する声明を出した。

中国政府は劉氏の墓を作ることを認めていない。墓を作ると民主化運動の聖地になってしまうからだ。その後、実の兄に記者会見で「中国共産党と政府に感謝する」と発言させた。いずれも劉氏の死後の影響力を恐れてのことだ。これらの対応についてジャーナリストの池上彰氏は「とても人間のすることとは思えません」と批判している(文春オンライン7月31日<池上彰は「劉暁波の死」をどう見たか>)。

冒頭の言葉は、劉氏が獄中にいたために不在のまま行われた2010年12月のノーベル平和賞授賞式で代読された陳述書「私には敵はいない――私の最後の陳述」からの一節だ。これは2009年12月に劉氏が自らの裁判で読み上げるために記されたもの。政府から迫害され続けてきた劉氏だが、陳述書はこう続く。

「私を監視、逮捕し、尋問した警察官、起訴した検察官、判決を下した裁判官も、誰もが私の敵ではない」
「私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かしたい」

――ハフィントンポスト7月14日<「愛する妻よ、君に伝えたい」劉暁波氏が残した愛と平和のメッセージに世界は震えた(全文)>

「愛で憎しみを溶かしたい」――。巨大な国家に対して、非暴力と言論とあふれる愛で戦いを挑んだ劉氏の発言と人生を振り返ってみたい。

天安門広場の民主化デモに参加、反革命罪で投獄される

劉氏は1955年生まれ。吉林大学で中国文学を学んだ後、北京師範大学で博士号を取得。教員となり、学生たちを指導しつつ、数々の文章や著作を発表。その後、オスロ大学やコロンビア大学などに招かれて客員研究員となる。

1989年、10万人を超える全国の学生らが北京の天安門広場で民主化を求める運動を起こすと、劉氏は滞在していた米国から帰国してデモに加わった。「多くの知識人が尻込みするなか、すぐに参加すると決めたのが彼だった」と行動をともにしていた書店経営者・劉蘇里氏が振り返る(朝日新聞デジタル 7月13日<劉暁波氏、貫いた非暴力の抵抗 「私たちに敵はいない」>)。劉氏は「行動する知識人」として学生たちのハンガーストライキを指揮した。

劉氏が徹底してこだわったのは「非暴力」だ。学生が入手した銃を見つけたときは、その場で取り上げて破壊した。人民解放軍による介入と弾圧の危険が高まると、他の知識人3名とともに学生たちに武器を捨てるよう説得する一方、軍幹部との交渉に臨んで学生らを広場から撤退させた。劉氏は学生に向かってこう訴え続けたという。

「恨みを捨てよう。恨みは私たちの心をむしばむ。私たちに敵はいない。理性的に対話しよう」
――朝日新聞デジタル 7月13日<劉暁波氏、貫いた非暴力の抵抗 「私たちに敵はいない」>

6月4日未明、人民解放軍による武力鎮圧が決行された。中国共産党の公式発表では「事件による死者は319人」とされているが、実際は定かではない。劉氏は犠牲者を減らした「四君子」とも称されたが、事件後に「反革命罪」で投獄された。