服役中にノーベル平和賞を受賞
北京五輪が行われた2008年、劉氏は「08憲章」を複数の知識人と起草してインターネットで発表する。中国共産党の一党支配を批判し、三権分立や直接選挙の実施などを訴えたものだった。「08憲章」はインターネットを通して世界中に広がり、多くの賛同者を得た。しかし、劉氏は国家政権転覆扇動罪に問われ、2010年に懲役11年の実刑判決が確定する。それ以来、遼寧省の刑務所で服役することになる。
服役中の2010年、劉氏はノーベル平和賞を受賞する。受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」こと。授与の決定は「全会一致」だったという(読売新聞 2010年10月9日)。発表後、刑務所に面会に訪れた妻の劉霞(リウシア)氏に向かって涙を流してこう語ったという。
「賞は天安門事件の犠牲者に捧げられたものだ。僕はその代表に過ぎない」
――朝日新聞デジタル 7月13日<不屈の闘志、非暴力貫く 天安門事件、武器の所持許さず 劉暁波氏死去>
――朝日新聞デジタル 7月13日<不屈の闘志、非暴力貫く 天安門事件、武器の所持許さず 劉暁波氏死去>
中国政府は妻が代理として式典に出席することを認めなかった。家族の代理出席が認められなかったのは、ナチス・ドイツの強制収容所にいながらノーベル平和賞を受賞したカール・フォン・オシエツキー以来のこと。授賞式で壇上に上がったのは、誰も座っていない空の椅子だった。「私には敵はいない」と題された陳述書は、空の椅子の横で読み上げられた。中国政府はインターネットで「空の椅子」という単語での検索を禁じた。
拘束や逮捕は4度にわたる。国内では出版も講演も許されなかった。天安門事件の民主化リーダーの多くは国外に逃れたが、劉氏はそれでも国内にとどまり続けた。劉氏は友人にこう語ったという。
「中国の自由、民主、憲政の希望は民間にあり、僕の根はここにある。中国の問題はここで生活する人が解決するしかない。圧迫と恐怖の中で生きたい人はいない。時間はかかるかもしれないが、みんな気づくときがくるはずだ」
――朝日新聞 7月13日<不屈の闘志、非暴力貫く 天安門事件、武器の所持許さず 劉暁波氏死去>
――朝日新聞 7月13日<不屈の闘志、非暴力貫く 天安門事件、武器の所持許さず 劉暁波氏死去>
劉氏は中国出国の機会を放棄し、自分の自由も放棄した。近年でも担当弁護士によると、罪を認めれば釈放してやるとどれだけ言われても、決して応じなかったという(BBC NEWS JAPAN 7月14日)。