夏川りみ、山内惠介と全国行脚
【田原】しかし、三井さんはその店に就職しないでお父さんの仕事を手伝うようになった。お父さんは何をやられているんですか。
【三井】父はもともとポニーキャニオンというレコード会社で働いていました。そのときにスカウトしたのが、夏川りみさん。スカウト当時は12歳。星美里という名前でデビューしたものの、あまり売れなくて沖縄に帰っていました。しかし、父は絶対に売れると信じていて、独立して芸能プロダクシヨンをつくって呼び戻したんです。再スタートを切ったところ「涙そうそう」が大ヒット。私が専門学校を卒業する前年の暮れに紅白出場が決定して、これはもう手伝うしかないなと。
【田原】手伝うって、どんなことを?
【三井】できることは何でも。たとえば衣装のアイロンかけをしたり、ファンクラブの会報をつくったり。写真を撮ってHPにアップしたり、グッズをつくったりもしました。
【田原】そのまま家業を手伝うのかと思ったら、29歳のときにロサンゼルスに留学される。
【三井】当時はまったく休みがなくて、ちょっと立ち止まりたかったんです。ありがたいことにのちに紅白に出場する山内惠介など、ほかの所属歌手も忙しくなってきて、20代は各地を飛び回る日々でした。1年で47都道府県をすべて回った年もありました。ただ、演歌界はとても小さな世界。自分のキャリアを考えると新しい世界を経験したかったし、30歳になってからでは一歩踏み出せなくなる気がして。行くなら、29歳のいましかないなと思って渡米しました。
【田原】三井さんは貴重な戦力だっただろうに、よく決断できましたね。
【三井】マネジャーは代わりがいます。3.11があったとき、私は3代目コロムビア・ローズという演歌歌手を担当していました。宮城県の荒浜出身ということもあり、慰問に行くと、被災者のみなさんが泣いて喜んでくださった。その様子を見て、「歌を届ける仕事は歌手にしかできない。私も自分にしかできない仕事をしたい」と思ったんです。その経験も背中を押してくれた気がします。
【田原】でも、その先がなぜロサンゼルスだったのですか。
【三井】正直に言うと、自分に何ができるのか、当時はよくわかっていなかったです。ロスを選んだのは英語と本場のエンタメビジネスを学ぶためで、最初の1年間は語学学校に通いました。その後はUCLAの夜間に進学しました。
【田原】エンタメビジネス?
【三井】私が勉強したのはツアーマネジメントやライセンスビジネスです。ロスはエンタメの本場だけあって、講師陣が豪華。マイケル・ジャクソンの元マネジャーやエアロスミスの顧問弁護士が教えてくれました。
【田原】三井さんが浮世絵と出合ったのはいつですか?
【三井】日本で夏川りみさんのマネジメントをしていたときです。浮世絵の版元さんが会社に、浮世絵のグッズをつくらないかと相談にいらしたことがありました。このときは実現しなかったのですが、実物を見て、細かな仕事に感激したんです。それから興味を持ち始めて、美術館などに見にいくようになりました。
【田原】仕事にしようと思ったきっかけは何ですか。
【三井】ロスの語学学校で、自分の国の文化を紹介する授業があって、私は「冨嶽36景」を紹介しました。みんなの反応がすごくよかったので、浮世絵は海外でも受けるなと直感しました。浮世絵の職人さんが非常に少なくなっていることは知っていたので、「アメリカで売ってみたらどうですか。売れれば職人さんの仕事も増えるのでは?」と版元さんに提案。すると、「じゃ、三井さんがやってよ」と(笑)。
【田原】なるほど。でも、浮世絵をつくるなら日本を拠点にしたほうがいいんじゃないですか。
【三井】世界の人に認知してもらうには、海外のスターを描くことがもっとも手っ取り早い。海外のスターとライセンスの交渉をするなら、ロスに拠点を置いたほうがいい。だから向こうで会社を立ち上げました。