貧困やストレスが判断力を奪っている
わたしの生い立ちからも言えることだが、貧困家庭には大きな壁が立ちはだかっている。貧困になるのは怠け者だからだと言う人もいるが、それは現実を知らないとんでもない誤解だ。まず、貧困家庭に育つと人生を導いてくれる先生やメンターへのアクセスがない。スタンフォード大学へ入学してくるような裕福な学生なら、家庭教師もいただろうし、身の回りに相談にのってくれる大人もそろっていて、才能を最大限に伸ばせる環境にあるだろう。
だが、貧困状態に生きていると、ストレスでいっぱいになり、集中することができない。そういう環境にある人間は、前頭葉を使って合理的で冷静な判断ができず、すぐに反射的な決断をしてしまう。毎日の食事にありつけるか、月々の家賃が払えるかといった、生活、生存上の不安にさらされている状態にあるからだ。そんななかでは明瞭に考えられるはずもなく、勉強など無理だ。毎日の生活のなかにも具体的な困難がたちはだかっている。車が買える裕福な人は、15分も運転すれば仕事場に着くだろう。一方、貧乏で車が買えない人は長時間かけてバスに乗って職場に行く。それでも賃金は最低ラインで、家賃を払えるか、子供の教育費が出せるだろうかといった不安にさいなまれる。だから別の仕事もかけもちし、さらにバスに何時間も乗って帰宅するのだ。
そんな生活をしていると自尊心も損なわれる。生活が安定していれば、自信ももてるだろう。だが、貧困だと、仕事場で厳しい上司がすぐに首を切ると脅したりする。彼らは、生活の糧について心配しなくていい普通の人間には想像もつかないような、強烈なストレスのなかで生きているのだ。こうしたすべてが交換神経システムに影響を与える。不安やストレスがあると鬱病になりやすく、共感を抱いたり、合理的に考えたり、創造性や生産性を発揮する能力が損なわれてしまう。
もちろん、こうした社会問題をすべて、ルースが教えてくれたマジックで解決できるわけではない。アメリカには深刻な貧富格差問題がある。まず貧困をなくし、苦しむ人々に十分なケアを行き届かせることを最優先させるべきだ。裕福であろうが貧しかろうが、親はみな子供のことを考えている。しかし、貧困のなかにある親は、生活上の困難やストレスによって身動きができないのだ。
共感やマインドフルネスを実践し、また感情コントロールを練習すると、5、6歳の子供であってもネガティブ感情に対する反応を抑えることができる。そうすれば、「いま、ここ」に集中して学習することが可能になり、前頭葉がうまく機能して思慮ある決断を下すことができる。つまり、感情に任せず、良い・悪いを判断できるようになる。それによって、暴力も減り、学習効果が上がることもわかっている。
わたしは幸運だった。そうしたテクニックを教えてくれる、ルースという人がいたからだ。そのテクニックを使って怒りや恥ずかしさ、不安を取り除くことによって、世界をありのままに見て、心を開くことができた。そうすることで、世界とうまくつながれるようになったのだ。他者は自分とは関係がないと考え、他者とつながっていることが感じられないでいると、自己中心的で薄っぺらな人間になる。わたしはルースの教えのおかげで、そんな人間になることを免れた。(後編に続く)
スタンフォード大学医学部臨床神経外科教授。スタンフォード大学共感と利他精神研究教育センター(CCARE)の創設者兼所長。ダライ・ラマ基金理事長。カリフォルニア大学アーバイン校からテュレーン大学医学部へ進み、ウォルター・リード陸軍病院、フィラデルフィア小児病院などに勤務。米陸軍では9年間軍医として勤務した。最近の研究対象は、放射線、ロボット、視覚誘導技術を使った脳および脊髄の固形腫瘍治療。CCAREでは共感・利他精神が脳機能に及ぼす影響、共感の訓練が免疫をはじめとする健康への影響などの研究に携わっている。起業家、慈善事業家としても幅広く活動。