「警戒心」の集団へクールに問いかけ
2004年4月、常務執行役員の医薬研究開発本部長になった。専務執行役員にまたがって、3年間やった。40代の半ばだ。
当時、研究開発本部は「塩野義大学」と言われたほど、学術話が好きな研究者が多く、事業感覚に乏しかった。急ぐべき実験もゆったりと進め、競争相手に後れをとる。経営的にみればブラックボックスで、何でそう決まったのかがみえない。逆に、研究者にとっては楽な世界で、「そんなことをやられたら、やる気が出ない」と言えば、経営陣は踏み込みにくかった。
そこへ、踏み込んだ。別に「聖域」でも何でもない、と思った。会社のカネを使ってやっていることであり、何を決めてくれてもいいが、ともかく誰がどう決めたのかだけは、オープンにしなくてはおかしい。ただ、猛烈な抵抗が予想された。でも、むしろそこが、再出発の原点になる。
直前まで経営企画部長を務め、04年まで5年間の第一次中期経営計画を策定し、「営業力の塩野義」から「創薬型企業」への転進を打ち出した。「選択と集中」を旗印に、針路からはずれる事業は整理し、各部門から強い反発を受けた。次は研究開発本部の刷新で、当然、研究開発本部の面々も、警戒心を持って迎えた。