改革の方向を示す第一次中期経営計画(2000~4年)の策定にも、当たった。掲げた目標は、医薬品事業への集中と創薬型企業としての飛躍。ほかに独立した会社として生き抜く道はない、と確認した。社長も同じで、大手製薬の「通告」を受けると、「創薬型企業としての威信にかけ、『クレストール』の国内共同販売権を是が非でも獲る」と檄を飛ばす。
3週間で、100ページの書類をつくった。買収額をはじき、社長とだけ相談する。英国での交渉も、社長と2人か、1人で通う。国内販売では、日米の大手製薬会社が組み、先行していた。薬効には自信があっても、有利な競争条件を築きたい。販売権の獲得を争う相手には、資金力がある。交渉条件を固めていくには、いくつもの変数があった。だが、子どものころから、数学的思考は得手だ。
決め手は、英社にもメリットがある形へ、一歩退く戦法だった。自社が得するばかりでなく、相手も喜ぶ「ウィンウィン」の案を示した。20代後半に、ニューヨーク事務所で医薬品の特許使用権のやり取りに携わった。帰国後も開発渉外部で、特許交渉を重ねた。そうした経験から、契約は一方が完勝するような攻め方では成り立たない、双方が「51対49で勝った」と思えるような退き方が肝要だ、と確信していた。
最終案で、英社が世界中の売り上げから払う特許使用料の料率と期間の組み合わせを、足元の投資に資金が必要だった英社の事情に配慮した。他方で、年を追って売り上げが増えれば、塩野義の利益も増える仕組みにした。合意し、日本での共同販売権も得る。
02年5月、両社は契約締結を発表。翌6月、福岡市に双方の幹部が集まり、出陣式も開いた。ただ、先行した他社製品に安全性の問題が生じ、「クレストールは欧米でのデータはあるが、日本でのデータが少ない」との声もあり、厚労省が審査に慎重となる。
ようやく認可が出て、通常販売が始まったのが06年秋。だが、今度は、英社の日本法人との間で客の奪い合いが起き、販売現場が疲弊する。ここでも「不敢進寸」の精神を説く。社長就任から1年半後の09年9月、両社の営業責任者を大阪に集め、「ブロックバスター」の達成を目指す共通目標を確認し、ついに軌道に乗せる。
「不敢進寸、而退尺」(敢えて寸を進めずして、尺を退く)――一寸の前進よりも、あえて一尺の後退をするとの意味で、中国の古典『老子』にある兵法の言葉。勝とうとして突き進むことばかりを考えず、戦争を避け、終わらせることに意を尽くすように、と説く。特許交渉などで自社の利益のために攻めるばかりでなく、一歩退いて「ウィンウィン」の形に持ち込む手代木流は、この教えと重なる。