医者とは別の形で母の願いに応える

1959年12月、仙台市で生まれる。両親と姉の4人家族。父は東北電力の技術者で、転勤が多く、小学校で二度、転校した。宮城教育大付属中学から県立仙台一高へいき、中学ではバドミントン部、高校では写真部で過ごす。

父母は、何でも自由にさせてくれ、進学に口を挟まなかったが、母は「医者になってほしい」と思っていた。でも、数学や化学が好きで、東大理科II類へ入り、薬学部へ進む。ところが、授業の実験内容が固定的で嫌になり、大学へいかずにアルバイトに精を出す。成績が落ちたが、母は「それは、あなたのせいだから、自分で何とかしなさい」と、自主・自立を求めるだけ。そんな母の影響を最も受けた、と思っている。

同期生の9割以上が大学院へいくなか、就職を選ぶ。「研究所以外なら、どこで働いてもいい」という希望を認めてくれたのが、塩野義だ。82年4月に営業枠で入社し、新薬の臨床実験の依頼やデータの分析、国への申請を受け持つ企画部に配属された。糖尿病用「ヒトインスリン」の担当チームに入り、大半の仕事を受け持たされる。深夜まで働く日が続き、休みが取れず、眠くて昼食後にトイレで眠ってしまったこともある。

前述したニューヨーク駐在を経て、開発渉外部へ。英語が話せ、内外の新薬申請に通じたことで、少し天狗になっていた気がする。すると、自他ともに「左遷」とみた二度目の米国勤務がくる。何度か「会社を辞めようか」と思った時期で、思い直して仕事に打ち込み、「全体最適」を考える経営者的な視点が生まれたときでもあった。

08年4月に社長就任。創業家以外で初の社長で、48歳と前任者より13歳も若返った。新薬は、原型が生まれてから市場へ到達するまでに、平均13年から15年かかる、と言われていた。前任社長が「きみがいま社長になったって、始めたことが実を結ぶのは俺の歳だぞ」と笑った。

母は、医者になって社会に貢献してほしい、と願った。だが、自分の意思で、別の道を選んだ。でも、いま、医者たちと連携し、母が願っていたような貢献が、別の形で可能な位置にいる。思えば、無意識のうちに、母の思いに応えようとしているのかもしれない。

塩野義製薬社長 手代木 功(てしろぎ・いさお)
1959年、宮城県生まれ。82年東京大学薬学部卒業、塩野義製薬入社。98年秘書室長、99年経営企画部長、2002年取締役、04年常務執行役員 医薬研究開発本部長、06年専務執行役員。08年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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