「独力型」政治家の活かし方
ロッキード事件を「アメリカによる謀略」と見る説は、現在でも根づよく支持されている(石原慎太郎の『天才』も、この立場で書かれている)。外国による介入の真偽はともかく、あの事件の際に一部の政治家や法曹がしめした「角栄への酷薄さ」は異様に見えた。エスタブリッシュメント集団による「ゴジラ退治」――おそらくそれが、あのとき行われていたことの「実態」であった。
シリーズが継続するなかで、ゴジラは「日本というシステムの守護神」になっていった。田中角栄もいま、「朽ちかけた戦後体制を蘇生させる英雄」のモデルと目され、保守とリベラル双方から称えられている。「システム」再建のために放逐した「鬼っ子」を、「システム」の危機を救う「神」として後から祭りあげる――平将門や西郷隆盛に強いたのとおなじことを、日本人は田中角栄にもやろうとしている。
チャーチルは角栄とちがい、最後まで「システム」から排除されなかった。大貴族の家系に生まれ、父も大臣級の政治家。チャーチルの出自は、エスタブリッシュメント集団の中核にあった。そのことが、彼の身を幾分か守ったのは確かである。だが、問題はそこにとどまらない。「システム」には飼いならせない「独力型」政治家の活かし方を、英国社会は心得ていた。チャーチルと角栄の運命をわけた「最大の要因」はそれであろう。
日本の「システム」は、みずからの課す「ミッション」――「必要悪」を引きうけること――の達成だけを角栄に求めた。そこから角栄が逸脱しようとすると、たちまち制裁を加える側にまわった。
チャーチルは、第2次大戦中もそれ以外の時期も、英国の「システム」を無視して暴走しつづけた。それでも英国の「システム」は、戦争という「異常事態」にのぞんでチャーチルを指導者の地位に据えた。チャーチルは、自分の「キャラクター」と「言葉」を武器に奮闘する。彼の「個」の力のみで歴史が動いたわけではないにせよ、チャーチルが勝利に寄与したことはまちがいない。ただし、彼が守ろうとしたのは「英国というシステム」ではなかった。自分のような「英雄」が活躍するにふさわしい「華麗な舞台」。それを維持するためにチャーチルは死力を尽くした
チャーチルは「いつまでも退治されず、飼いならされもしないゴジラ」である。先にふれたとおり、司馬遼太郎は「体制製造家=独力型」の末路がそろって「悲劇的」だと指摘する。しかしそれは、世界中どこにでもあてはまる原則ではない。英国人のチャーチルは、「独力型」でありながら政治生命をまっとうした。
われわれもまた、「チャーチル」に最後まで使命を果たさせる術をまなぶべきではないか。「国家」という「システム」が根幹から揺らいでいる現在、そのことを改めて痛切に感じる。それとも、「独力型」の指導者を「悲劇的な末路」に導くのは、日本社会の「不治の病」なのだろうか。