独自の和製英語「シャカク」の意義
米国のコマツの販売代理店の間に「SHAKAKU」という言葉が残っている。30年近く前、サンフランシスコで考え出した和製英語だ。漢字で書けば「車格」。独自の計算式を使って、ブルドーザーを馬力や重量、押し出せる土の量などから総合的に数値化し、つくり出した「格付け」だ。いまでは、新製品の企画開発に「車格」の考え方が浸透し、他社製品を上回る性能を確保することが、当然となっている。
1981年3月、小松アメリカのサービス部長に赴任した。全米の販売拠点として70年、シスコに設立された子会社だ。当初は順調に販売台数を伸ばしたが、80年代に入って米国経済が停滞し、業績は落ち込んでいた。そのテコ入れが最大の任務。満40歳で初の海外勤務は、心が弾むゆとりもなく、始まった。
当時、米国では、キャタピラー社にブランド力でも市場シェアでも、水を空けられていた。そこで、同クラスのブルドーザーを相手製品より5%ほど大きくつくり、5%ほど安い値で出していた。でも、ひと回り大きいことが認識してもらえず、販売代理店は「5%安いだけでは不足だ。10%は下げろ」と不満を寄せる。そんな文句を聞き続け、「どうすれば、売れるのか」を考え抜き、編み出したのが「車格」だった。
部下に手伝わせ、競合6社の製品をすべて格付けし、コマツ製品の優位性を示す。その表を手に、代理店を回って「このSHAKAKUをみろ。同じ土を押しても、競争相手の製品より押土量が多い。掘削量も違う。本来なら値段が高くて当たり前なのに、5%も安くしているのだから、十分売れるはずだ」と説く。店主たちは、頷いた。
データを集めて分析し、現実を直視したうえで合理的な解を選ぶ。それを、徹底して実行する。前号で触れたように、若いころからの坂根流だ。それに、このとき、もう一つ強みが加わった。説明力だ。「誰もがよくわかるように、説き聞かす」――リーダーに不可欠な力を、無意識のうちに身につけ始めていた。
シスコにいた3年9カ月は、日米貿易摩擦が吹き荒れたときだった。建設機械業界も、自動車や半導体などの業界と同様に、たたかれた。コマツの場合、80年にソ連から大型パイプラインの建設プロジェクトを受注したのが、冷戦下でさらなる攻撃を呼ぶ。米メディアが「あのキャタピラー社が大赤字になるのは、おかしい。日本勢が、不正なことをしているのに違いない。ソ連と変な商売もしている」とまで報じた。
ところが、キャタピラー社の首脳陣は、冷静に説明した。「そうではない。日本の建設機械市場は門戸を開いており、キャタピラーの合弁会社もある。自動車業界のような、系列取引による参入障壁もない。問題は為替相場。1ドル=250円というのは、円が安すぎる。為替の水準さえ変われば、我々も何とかなる」。騒ぎに便乗していい思いをしようという卑しさなど、微塵もない。米国社会の底流にある「きちんと説明する」との姿勢を貫く。名門企業の高き誇りを感じるとともに、リーダーの説明責任の果たし方も学んだ。
84年暮れに帰国すると、貿易摩擦の回避に、テネシー州チャタヌガに自前の工場を持つ計画が進んでいた。その立ち上げを担当する。翌年9月、最後の詰めに渡米した。そこで、事態が急変する。9月22日、「プラザ合意」が成立し、一気に円高・ドル安が進んだ。それまでの為替水準を前提にした案では対応しきれず、計画はいったん白紙に戻る。翌年、あらためて建設するとき、社長に直談判し、担当からはずしてもらう。新工場の建設は、できた後に経営を託される人間が手がけるべきだ。自分は帰国して日が浅いから、その対象ではない。そう考えた。
でも、チャタヌガとの縁は切れない。米国で不況が続き、業界再編が進んだ。コマツも巻き込まれ、米国に建設機械会社を持つカナダ企業と合弁会社を新設した。シカゴに本社を置き、チャタヌガ工場も傘下に入れる。だが、赤字が続き、91年1月、再建に社長として派遣された。