晩年の約半年間で後世に名を残す名武将
その目的達成のために幸村は緻密な計算を怠らなかった。一つは優れた情報網の構築。情報網を駆使して家康の居場所をキャッチする。身の安全を図り、次々に陣を移す家康。徳川軍にとってさえ最高機密である大御所の現在地を、正確に把握していた。だからこそ後世、猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」と呼ばれる忍者たちの伝説も生まれたのである。
さらに、幸村は家康の本陣に最後の突撃を敢行したとき、二人の影武者を用意している。自分自身が斬り倒されることなく敵陣の最深部まで到達するための策だ。最初に述べた「冬の陣」での活躍の際も、種々の奇襲を仕掛けている。このように、幸村が戦闘において常にイノベーションを図っていたことも、注目し、学ぶべき点だと言えるだろう》『新装版 真田幸村~「弱者」の必勝戦術ここにあり』(プレジデント社刊)より抜粋。
「経営者は我慢が大切」とよく言われる。幸村も、14年(!)の幽閉期間の間、おそらく何度もくじけそうになっただろうし、密かに諦めたこともあったかもしれない。だが、ひたすらに我慢した。そして来たるチャンスを的確につかみ、言うなれば晩年の約半年間の功績だけで、後世に名を残す名武将となったのである。
「弱者」には弱者の戦い方があり、それは「必勝戦術」になる可能性を常に秘めているのだ。