「ビッグになる」と中国→アメリカへ
【田原】國光さんは高校を卒業後、中国の大学に進学したそうですね。日本の大学は魅力なかった?
【國光】日本というか、当時は大学に通ったら負けだと思ってました。
【田原】どういうこと?
【國光】僕は団塊ジュニア世代。受験戦争が激しくて、小学生のころから塾に通い、お正月から「常在戦場」と書いたハチマキをしめて勉強する子どもでした。進学した学校には同じような子どもたちがたくさんいて、なんとなく将来が見えてしまった。このままみんなと同じレールに乗ってもビッグになれないと思って大学受験をやめ、ひとまず2年くらい飲食のバイトをしていました。
【田原】でも、バイトするだけじゃビッグになれない。
【國光】そうなんです。そのことに気づかせてくれたのが阪神淡路大震災です。僕は神戸の出身で、まわりには亡くなった人も大勢いました。人の生き死には紙一重だという現実を突きつけられて、「自分はまだ何もやってない。今日死んだら絶対後悔する」と痛切に感じました。それでとにかく環境を変えようと思って、中国の大学に行きました。
【田原】どうして中国?
【國光】21世紀はアメリカと中国の時代だと考えていたので、そのどちらかに行くつもりでした。ただ、アメリカは物価が高い。一方、中国は学費と生活費で年間50万円くらい。バイトして貯めたお金で行くなら、やっぱり中国だろうと。
【田原】それでせっかく上海の復旦大学に入ったのに、中退しますね。
【國光】中国でも自分の人生が見えてきちゃったんですよね。当時、日本は景気が悪く、多くの日本企業が中国進出を検討していました。僕は通訳のバイトをしていて、日本企業を騙そうとしている中国人の言葉をそのまま訳さず、「相手は高く売ろうとしていますよ」と教えたりしていました。それが日本人社長の噂になってどんどん仕事が舞い込むように。それはそれで楽しかったのですが、一生の仕事にするのは違うかなと。
【田原】大学をやめた後、世界各地を2年放浪してアメリカに行った。アメリカでは何をしていたのですか。
【國光】カリフォルニアのサンタモニカカレッジに通いながら、JSN(ジャパニーズ・スチューデント・ネットワーク)という団体の活動をしていました。海外では日本人のプレゼンスがまったくないので、お互いに助け合ってプレゼンスを築いていこうという団体です。
1934年滋賀県生まれ。県立彦根東高校卒。早稲田大学文学部を卒業後、岩波映画製作所、テレビ東京を経てフリーに。幅広いメディアで評論活動を展開。