一般公募で社長を選ぶ

いすみ鉄道はもともと木原線としてJR東日本が運営していたが、経営難に陥り、1987年に千葉県や大多喜町、いすみ市などが株主となって第3セクターで引き継ぎ、いすみ鉄道となった。

だが、その後も乗客は減り続け、経営は悪化する一途。2006年には輸送人員が年間50万人と1988年の45%まで落ち込んでしまった。収入は約1億円で、コストが2億。毎年1億円以上の赤字を垂れ流していた。

そこで、千葉県や沿線自治体の首長を委員とするいすみ鉄道再生会議が設置され、経営改善に向けて動き出した。上下分離方式を採用し、線路などの修繕は沿線自治体が補助、地域住民も再生に協力した。そして、08~09年を検証期間として存続か廃止を判断することになった。

その改善策の一環として、民間から経営者を招聘することになった。08年に千葉県のバス会社経営者が就任したが、09年に千葉県知事選出馬のために辞任。同年、社長を一般公募することとなり、応募者123人の中から、元ブリティッシュ・エアウェイズ旅客運航部長だった鳥塚が選ばれた。

鳥塚は、父親が千葉県勝浦市の出身で、幼少の頃からいすみ鉄道を使っていた。また、子供時代から新幹線の運転士になりたいと思い続けていたほどの鉄道ファン。航空会社に勤めていたときも、副業として全国の鉄道の先頭車両から撮影した映像をDVD化するビジネスをずっと続けており、現在までに570タイトルも販売している。

こうした事情や、50歳を前にして新しいことにチャレンジしたいという気持ちも相まって、いすみ鉄道の社長に応募したのだった。

面接の際、「社長の年間給料は700万円で、かなり年収が下がるが、それでもいいのか」と聞かれたので、鳥塚は「毎年1億円の赤字を出していて、給料を700万円も出すのはおかしいのではないか」と答えたら、面接官がムッとした顔をしたので、落ちるのではないかと思ったら、意外にも採用が決まった。就任後は自ら給料を10%カットしたという。

鳥塚は就任して最初の朝礼で社員たちに語りかけた。

「皆さんは鉄道のプロだから私は運行管理には口を出さない。しかし、一つだけ言いたい。いすみ鉄道をブランド化し、友達や家族から『いい会社で働いているね』といわれる会社にしたい」

さらに、人員整理を心配していた社員に対して、鳥塚は「1人もクビにしない」と宣言した。赤字会社で安い給料でも社員たちは腐りもせず、がんばっていた。鳥塚はこれならば立て直せるだろうと思った。