「私は昔から人の話を聞くのが大好きなのです。施設にはいろんな方がいますよ。魚屋さん、布団屋さん、クリーニング屋さん、真珠を売っていたというおばあさんもいます。商社マン時代とはまったく違う世界ですが、楽しい。認知症の人が話しているうちにちょっと笑ってくれることがあります。あれは本当にうれしいですよ」

熊野さんの出勤日は水曜から日曜日、時給制のアルバイトだ。「土日は電車が空いているし、うちにいても家内に庭の草取りをやらされるだけ」と笑うが、若いスタッフを土日は休ませてあげたいという心遣いもあるのだろう。元気に働く熊野さんのために、妻は毎日弁当をつくってくれる。

仕事には人一倍真面目な熊野さん。体調管理には気をつけている。1日に5箱吸っていたというタバコはきっぱりやめた。酒も飲まず、刺し身などの生ものも避け、睡眠時間もしっかりとっている。

「学校や会社関係などのOB会にも5年以上出ていません。楽しいけれど暇がないですから。その時間に寝て体力をつけたい。以前は友人が死ぬたびにショックを受けていましたが、最近は『少し先に逝ったんだな』と淡々と受け止めるようになりました。私は80歳まで働ければいいと思っていますが、先のことは考えないことにしています」

熊野さんは謙虚な姿勢を崩さない。介護福祉など社会的意義の大きい分野で働きたい後輩世代へのアドバイスを求めたが断られた。

「私の現役人生はもう終わっています。自分が楽しく働いているだけ。他人にアドバイスできることなんてありませんよ。体力とエコひいきしない心があれば、介護施設はいい職場の一つだとは思いますけどね」

ただし、子育て世代の正社員にとっては介護福祉の労働条件は厳しいと熊野さんは真剣な表情で付け加えた。そこにはかつて海外を飛び回っていた商社マンではなく、若い仲間と業界の将来を心配する現役の介護スタッフの姿があった。

(伊藤千晴=撮影)
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