体が資本の人々に高級ワインが人気
1951年9月、流山で生まれる。父は野田醤油に勤め、兄弟姉妹が一人ずつ。小学校2年から大学まで慶応義塾。中学1年のときに兄が亡くなり、自然、長男のような立場になるが、厳しく躾けられた兄とは違うだけに、父も「いまさら後継ぎは無理だろう」と思ったらしい。だが、その父も大学2年のときに亡くなり、「自分が母やきょうだいを守らなくてはいけない」との思いを強く持つ。
74年4月に入社。一族の八家には代々、それぞれの家系から1人しか入社させない、との合意がある。母に望まれて、自然な気持ちで入社した。野田の工場で3カ月の研修があり、醤油の生産工程の実習も受けた。
最初の配属先は社長室。設備投資や原料購入など製造に関する予算を3年担当し、全社の生産現場の流れを学ぶ。次に大阪支店へ異動し、営業管理を1年、さらに営業現場を3年経験した。担当地域は、大阪市の西部から西南部へかけての7つの区。当時の醤油の主たる販路は街の酒屋さん。売り上げ目標が達成できず、営業車にタイヤが沈むほど商品を積み、1人で店を回ったこともある。
担当地域に「日雇いの人が集まっていて、近づきにくい」とされた西成区があった。周囲は心配したが、回ると、下町らしい情があり、温かい。商売のコツも教えてくれ、思い出深い地となった。
面白かったのは、西成では高額ワインがよく出たことだ。2500円という当時では高めの国産ワインが、食堂で売れた。人が集まる立ち飲み屋では、一升瓶の焼酎がコップ1杯で50円から100円。何で高級ワインが売れるのか、問屋に聞くと、食堂の壁をみろと言う。そこには「健康にワイン」と書いてあった。日雇いで働く人々は、体が資本で、医者から酒を控えるように言われていた。でも「ワインなら、健康にいい。薬だ」と飲んだ。「収入が少ない人は、安い酒を飲む」という既成概念が、一変する。